■ 沿革
九戸城は白鳥城という別称もあり、安倍頼時の子である則任が築いたという伝承が地元に残るが確証はない。
−九戸氏の築城−
江戸時代の資料には、九戸政実が永禄11年(1568)の鹿角郡奪還の合戦において戦功を立て、その恩賞によって二戸郡の福岡地域を拝領したとしており、その頃に政実が九戸村の長興寺より移って築城されたと考えられていた。
しかし一戸町の実相寺の古文書により、政実の4代前の九戸光政が明応年間(1492〜1501)の頃に築城されたと推測される。
−九戸政実と南部信直の確執−
九戸氏は三戸南部氏の支流であるが、政実の頃には三戸南部氏や八戸南部氏に対抗できる程の力を持つ様になった。
南部氏24代当主の晴政には嗣子が無く、田子南部氏から信直を養子として迎えていた。しかし晴政に息子晴継が生まれると両者の仲は険悪になり、信直は後継ぎを辞退した。
天正10年(1582)、晴政が死去し、後を継いだ晴継も13歳で死去(病死とも暗殺ともいわれる)すると家督争いが起こり、信直と実親(九戸政実の弟で晴政の娘婿)の対立となった。重臣会議の結果、北信愛・石川南部高信・八戸南部政栄らが推す信直が南部氏26代に決定した。
それに不満をもった九戸政実は自らを南部氏惣領と称し、ますます両者の対立は深まった。丁度その頃、津軽地方では大浦為信が諸城を攻略して独立の兆しを見せており、南部信直は北に大浦為信、南に九戸政実と二方面に敵を抱えて危機的状況であった。
そのため信直は小田原参陣中の豊臣秀吉に八戸南部政栄を遣わし、津軽地方は為信に出し抜かれて失ったものの、それ以外の本領は信直に安堵された。
−戦国時代最後の反乱−
天正18年(1590)、豊臣秀吉は小田原城陥落後、奥州仕置を実施した。小田原に参陣しなかった大崎・葛西・稗貫・和賀らの緒氏は所領を没収され、追放された。その後秀吉が仕置を終え、奥羽から撤収すると追放された諸氏の遺臣らが一揆を起こし、居城を奪還するなど不穏な情勢にあった。
そんな中、天正19年(1591)3月、政実はこの混乱を利用して三戸南部氏に反逆し、久慈・七戸・櫛引ら緒将を誘い、三戸南部氏方の諸城を攻撃した。それに対し信直は鎮圧にかかり、各地で合戦に及んだが苦戦を強いられていた。
そのため信直は秀吉に救援を求め、秀吉はこれを自分への反乱として甥の豊臣秀次を総大将とする討伐軍を派遣して葛西・大崎一揆を鎮圧し、次いで九戸討伐に向かった。9月に入り、九戸方の姉帯城・根反城・一戸城を陥落し、ついに九戸城を包囲し、総攻撃を開始した。
包囲軍は3万とも6万とも10万人ともいわれ、対する九戸勢は5千人といわれる。圧倒的な軍勢差を尻目に討伐軍は苦戦を強いられ、10日程の攻城戦で物資の補給も困難になりつつあった。
そのため討伐軍の井伊直政は一計を案じ、政実と懇意にしている九戸氏の菩提寺である長興寺住職の薩天和尚を使者として将兵の命は助ける事を条件として提示し、降伏を促した。
政実はそれを承諾し、反対した弟の実親を除く7人の将を引きつれ剃髪して降伏した。しかしその約束は反故にされ、政実ら8名の将を含む降伏した150人は宮城県栗原郡三迫で斬首され、城に残った兵を含む男女らは二ノ丸に押し込まれて火をかけられ、皆殺しにされたという。
−南部信直の居城に−
この九戸城落城により豊臣秀吉の全国統一が完了し、和賀・稗貫・志和の三郡は信直に加増された。
それにより信直は居城を三戸城から九戸城に移し、討伐軍である蒲生氏郷の協力をもって改修を施して福岡城と改称した。しかし福岡城は領内の北に偏りすぎて不便なため、寛永13年(1636)、不来方城(盛岡城)が築城されて居城が移されることにより廃城となった。
■ 構成
九戸城は馬淵川・白鳥川・猫淵川に囲まれた要害の地にあり、本丸・二ノ丸・三ノ丸・石沢館・若狭館・松ノ丸などからなっている。
本丸は南北約120m×東西約80mで、西側は馬淵川が流れ、断崖になっており、それ以外は石垣を含む土塁や堀で囲まれている。本丸の追手門は東側の中央に位置し、枡形が設けられている。
二ノ丸は本丸の東側と南側にあり、面積は本丸の約2倍である。南東部には土橋を用いた大手門があり、北東部には搦手門があった。
三ノ丸は本丸の西側にあったが宅地化されて遺構はほとんど残っていない。
石沢館と若狭館は二ノ丸の東側にある。松ノ丸は二ノ丸を挟んだ本丸の南側に位置し、三戸城から居城を移した南部信直の居館があった郭といわれる。
■ 現況
現在は国指定史跡として整備されており、堀や土塁が忠実に再現されている。三ノ丸と松ノ丸は宅地化や墓地などになっている。
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■ 大手門脇堀跡
この奥に二ノ丸大手門がある。当時はこの道路や右脇の空間も全部堀であり、その幅は60mもあった。時期によっては水堀であった可能性もあるという。 |
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■ 二ノ丸大手門東側堀跡
この空き地と右側に見える道路が堀跡であったと思われる。 |
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■ 二ノ丸跡
二ノ丸は本丸東側と南側をL字型に囲んでおり、この画像は東側である。左側に見えるのが本丸跡である。 |
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■ 本丸外堀跡
直線的に続く堀跡。堀底はちょっと湿っている。奥に見えるのは本丸追手門。 |
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■ 本丸追手門跡
二ノ丸から本丸への東側の入口である。 |
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■ 本丸追手門跡
こちらは本丸側から見たところ。右手の土塁は枡形の跡だろうか。 |
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■ 本丸跡
東西100m×南北100mの広さであり、東北隅は一段低くなっている。 |
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■ 本丸虎口跡入口
本丸南側入口であり、堀が途切れているため橋に頼らず出入りできる。大規模な枡形が設けられており、高めの土塁で守られている。 |
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■ 本丸虎口跡
この画像は本丸南側の土塁上から見たところである。枡形の規模の大きさが良く分かる。 |
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■ 本丸南側土塁・外堀跡
こちらは石垣の状態が良好に残っている。石垣の様式は古式穴太積(こしきあのうづみ)と呼ばれ、九戸氏滅亡後に蒲生氏郷が築いた可能性があるという。 |
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■ 二ノ丸搦手門跡
二ノ丸の裏側の門にあたり、二ノ丸から石澤館・若狭館への出入口にあたる。 |
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■ 石澤館跡
二ノ丸の東側にあり、外館(とだて)とも呼ばれる。本丸・二ノ丸・松ノ丸が枡形や石垣を用い、直線的で近世的な造りであるのに対し、この郭は曲線的で中世的な造りである。 |
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■ 若狭館跡
二ノ丸と石澤館の南に位置し、石澤館と同じように九戸城では古い時期の郭の一つである。 |
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■ 三ノ丸跡
九戸城で北西側に位置し、もっとも広い郭である。現在は宅地化されている。 |
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■ 馬淵川
九戸城の西側を流れている川である。この画像は白鳥川と合流地点下流である。 |
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