■ 沿革
黒岩城は和賀氏が和賀郡入部に際し、最初に居を構えた城であるとされる。
この地には平安時代より白山寺跡が存在し、古くからの文化的拠点であったことが窺われる。
−和賀氏最初の居城− 和賀氏は源頼朝の後裔と伝えられ、建久8年(1197)に和賀氏の始祖にあたる多田忠頼が和賀郡に入部したとされるが確証は無い。『鬼柳文書』によると、元仁元年(1224)頃、陸奥国刈田を領土としていた刈田平右衛門尉義季が和賀郡の地頭職に任じられ、義季の嫡子である三郎兵衛尉義行の代に和賀氏を称したという。
和賀氏が入部した際、黒岩城には和賀氏当主である和賀義氏の子孫が居城とした。和賀氏は当初の刈田氏が当主であったが、南北朝時代から室町時代にかけては多田氏に実権が移ったようである。応安3年(建徳元・1370)には和賀左近将監という者が確認でき、『多田文書』の多田左近将監と同一人物のようである。
その後、黒岩城の和賀氏は、一族である鬼柳氏から後継を迎えたとされ、更木館に居城を移したとされる。文明8年(1476)には、和賀氏と柏山氏とが戦い、黒岩城も戦場になったといわれる。
−和賀氏滅亡−
天正年間(1573〜92)、和賀氏最後の当主である義忠の兄・月斎義信が黒岩城を居城としていた。義信は盲目であったので弟に家督を譲らされたといわれる。
天正18年(1590)、和賀氏の所領没収と共に黒岩城も廃城になった。
■ 構成
黒岩城の全体は空堀で南北に三つの郭に区切られていた。
主要部は上岩崎と呼ばれる部分であり、南北400mの規模である。北端の郭は千曳城とも呼ばれ、北側と西側を北上川が流れ、東側と南側は堀で区切っている堅固さを持ち、城主が住んでいたと思われる。一方城主の家族や重臣は南側に屋敷を構えたとされる。
南半分は下岩崎と呼ばれ、空堀で二つに区切られた元館と呼ばれる郭が存在する。
元館は和賀氏が最初に居館を構えた時の岩崎塞跡ではないかといわれる。元館の南側には片月館・薬師堂館などの館跡が残る。
■ 現況
現在、主郭である千曳城跡には畑となり、館神が祀られている。また、周囲には空堀跡が一部残っている。
元館・片月館・薬師堂館・館屋敷跡といった他の館跡も住宅地・畑などとなっている。
|
■ 千曳城入口
標柱が建っている。かつての搦手口であったと思われる。 |
|
■ 千曳城東側空堀
幅約20m程の空堀が存在する。 |
|
|
|
|
■ 正洞寺
千曳城の南側に位置する。「上岩崎」と呼ばれ、家臣屋敷跡であるとされる。 |
|
|
■ 元館
元館跡は、当初岩崎氏が和賀郡に入部した際の居城・「岩崎塞」跡とされている。 |
|
■ 片月館
元館の南に位置する。和賀氏家臣であったであろうか、小田島氏の墓所が残る。 |
|
■ 薬師堂館遠望
東より望む。城域の南端に位置する。 |
|
|