くろさわじりおおだて
黒沢尻大館
黒沢尻大館跡  訪問年月日  2003年9月23日 / 2008年4月5日
 別称  黒沢尻柵・安倍館
 所在地  岩手県北上市川岸3丁目
 創築者  −
 主要城主  黒沢尻氏
 築城年  −
 廃城年  −
 様式  平城
 構成  −
 遺構  郭・堀
 設置・復原物  郭・堀・標柱・説明板
 文化財指定  −
 ■ 沿革
黒沢尻大館は、館跡より縄文時代後期から平安時代の土師器や須恵器などが出土しており、古来から居住地として活用されていたと思われる。

−黒沢尻柵として−
永承6年(1051)の前九年合戦においての黒沢尻柵の凝定地ともされている。
黒沢尻の地を治めていたのは安倍頼時の五男である安倍正任であり、黒沢尻五郎を名乗っていた。康平5年(1062)、源氏・清原連合軍は安倍貞任勢が立籠もる厨川柵を攻撃する際に黒沢尻柵も攻撃し、これを落とした。正任は出羽国に逃れたが後に投降し、伊予国に配流されたという。

−和賀氏の時代−
室町時代、安倍貞任の弟である安倍家任の子孫が黒沢尻大館を居館にしていたと伝えられる。また、この安倍氏(阿部氏)は胆沢郡百岡城主である百岡胤広の嫡子・胤勝を養子に迎え、この胤勝が黒沢尻氏の中興の祖となった。
後に黒沢尻氏は和賀氏に仕え、永享7年(1435)の和賀氏の内紛においては総領である和賀氏に背いて須々孫氏側に付き、稗貫出羽守の応援を得て和賀氏の支城である飯豊城を落城させている。しかしその後の黒沢尻氏の動向は不明である。


 ■ 構成
発掘調査により、堀や郭の一部が復原されたが、構成は不明である。


 ■ 現況
館跡は宅地化によって遺構はほとんど残っていない。
一部が大館公園として整備され、堀と郭の一部が復原されている。

■ 堀跡
南北に伸びる堀跡。
■ 郭跡
東側が若干高くなっている。
■ 館跡
現在は北上市中心部の市街地となり、遺構はほとんど残っていない。。