まえさわじょう
前沢城
前沢城 主郭  訪問年月日  2003年9月6日 / 2011年7月17日
 別称  昔木館
 所在地  岩手県奥州市前沢区陣場
 創築者  三田丹波守高盈
 主要城主  三田氏・大内氏・成田氏・飯坂氏・三沢氏
 築城年  応永7年(1400)か
 廃城年  
 様式  平山城
 構成  主郭・二ノ郭
 遺構  表門・郭・堀切
 設置・復原物  −
 文化財指定  −
 ■ 沿革
前沢城は葛西氏家臣である三田氏の居城である。葛西氏滅亡後は伊達政宗の勢力下となり、城代が置かれた。

−柏山氏家老・三田氏の居城−
応永7年(1400)、伊達氏9代政宗が鎌倉公方・足利満兼に対し反乱を起こした。この乱において三田丹波守高盈は陸奥国栗原郡三迫で伊達氏方に付いた宇都宮氏広を討った功績により、葛西氏9代満信より胆沢郡に所領を賜った。これにより高盈は柏山氏家老となり、前沢城を居城とした。柏山氏は葛西氏の家中でも屈指の力を持っており、近隣の諸氏に対し暴挙に出ることが多く、その度に三田氏が調停に乗り出すなど奔走ており、その信用や実力はかなりのものであった。

天正16年(1588)、三田氏7代・刑部少輔義広は柏山氏当主である柏山明宗の勘気を被った。そのため前沢城は明宗の弟らである小山九郎明長、折居宮内明久に加え、水沢の蜂屋次郎左衛門、下姉躰城主・大内源次郎らによって包囲された。この勘気とは、毎年恒例の柏山氏における例祭に三田氏が欠席した事、義広の子息の一人が大崎義隆に出仕していたために大崎氏への内通を疑われた事とされる。
この騒動においては永徳寺、正法寺らの住職が調停に動いたが、義広は自らの無実を主張して3人の子らと自害し、2人の子は討死した。
この時、義広の三男・久三郎は寺池城に赴いており難を逃れている。後に久三郎は和賀氏家臣である鬼柳伊賀守を頼り、天正18年(1590)に和賀氏が滅亡すると三田将監義勝と名乗って南部氏に仕えたという。

なお、同・天正18年に葛西氏17代晴信が三田刑部少輔に宛てた書状が残る。内容は、晴信が小田原の豊臣秀吉の下へに参陣したいが、葛西氏の家中が不安なため留守を頼みたい旨が記されており、この三田刑部少輔とは義広の弟であると思われる。このように晴信の三田氏への信頼は絶大なものであったと推察される。

−伊達氏の支配へ−
三田氏の滅亡後、前沢城には小山九郎明長が入ったが、間もなく天正18年(1590)、豊臣秀吉による奥羽仕置において葛西氏が滅亡すると、明長も命運を共にした。
葛西氏の後、前沢城は伊達氏の支配下に置かれ、天正19年(1591)に伊達政宗が岩出山城に居城を移すと、前沢城には大内備前守定綱が1万石の所領にて城代となった。その後、成田氏、飯坂氏と主が替り、延宝9年(1681)に伊達氏一門である三沢宗直が前沢に2,000石の知行を与えられると、後に1,000石の加増を受け、麓に居館を築いて明治維新まで三沢氏の支配下に置かれた。


 ■ 構成
南側に太郎ヶ沢川が流れる標高約80mの胆沢段丘縁部に位置する。
東西約70〜85m×南北約270mの面積である頂部に主郭と二ノ郭が位置し、南側が主郭で約三分の二を占めていたと思われる。主郭の北側には空堀を隔てて二ノ郭が位置していた。
主郭の南側には一段低く物見台が設けられていた。


 ■ 現況
現在、前沢城跡はお物見公園として整備されており、主郭跡と二ノ郭跡は公園化されて往時の面影は残らない。北側の一部に段差が残り、郭跡と推測できる。

■ 大手道
城跡の東側をつづら折り状の道が設けられている。
■ 大手道
主郭跡すぐ東まで続いている。
■ 公園入口
主郭と二ノ郭間の空堀跡であったと思われる。
■ 主郭
現在は公園として整備されている。
■ 主郭
公園造成時の改変により、遺構はほとんど残っていない。
■ 主郭東端
石碑が建てられている。
■ 主郭西側
縁部が若干土塁状に盛り上がっているが、恐らく後世の改変のものと思われる。
■ 二ノ郭
主郭北側に空堀を隔てて二ノ郭が位置していた。
■ 二ノ郭
現在は公園の北側で住宅地となっている。
■ 二ノ郭北東端
郭跡と思わしき段差が残る。
■ 堀切跡か
北東端に位置しているが、後世の改変かは不明。
■ 三沢氏居館跡
現在は奥州市立前沢小学校の敷地となっている。
■ 三沢氏居館表門跡
三沢氏時代の表門跡が現存している。