■ 沿革
水沢城の創建時期は明らかではないが、葛西氏の家臣・蜂谷氏が築いたとされる。
−佐々木氏の入部と躍進−
応永15年(1408)、足利4代将軍・義持に仕えていた佐々木将監繁綱は、葛西氏を頼って奥州に下向した。繁綱は葛西氏により胆沢郡に知行を与えられ、水沢城を居城にしたといわれる。
また、繁綱の弟・宗綱も幕命により北方奉行に任じられ、斯波郡に居住したと伝えられる。二人は母方の縁故により、葛西氏を頼って下向したものと思われる。
文明17年(1485)、葛西氏と気仙郡有住の南部氏との合戦においては佐々木信綱が活躍しており、大永3年(1523)に葛西胤信と大崎氏が左沼・深谷で合戦に及んだ際には、信綱の嫡子・信義が参陣し、信義は桃生郡矢本で討死した。
さらに天正7年(1579)に磐井郡峠城主・寺崎良継と栗原郡岩ヶ崎城主・富沢直綱が争ったが、これを鎮圧するために佐々木実綱が出兵しており、天正16年(1588)の気仙郡浜田の兵乱においても鎮圧のために動員している。
−葛西氏の没落−
また、『南部根元記』によると上記の佐々木氏とは別に、柏山中務少輔明宗の家臣・大内何某が水沢城を居城としていたとされる。いずれにせよ天正18年(1590)、葛西氏は豊臣秀吉の奥羽仕置において所領没収となり、佐々木氏もこれに従って没落した。
葛西氏旧領は木村伊勢守吉清に与えられ、水沢城には吉清の家臣である松田源太郎左衛門が入城した。しかし葛西・大崎一揆の責任により木村氏が所領没収になると、旧木村領は伊達政宗に与えられた。
−伊達氏の支配下へ−
政宗は天正19年(1591)、水沢城に1万5,000石をもって白石右衛門宗実を入城させた。宗実は慶長4年(1599)、伏見において病没したが、男子がいなかったため梁川宗清の子である宗直が養子となって跡を継いだ。
しかし慶長6年(1601)の和賀一揆において、政宗の命を受けて宗直が一揆勢を支援した事が徳川家康に露呈すると、その責により白石氏は登米郡の寺池城に転封させられた。
翌慶長7年(1602)、柴田兵部宗朝が入城し、その子・総四郎の代である元和2年(1616)には石母田宗頼が替わりに水沢に配された。
そして寛永6年(1629)に留守宗利が金ヶ崎城より水沢に1万6,135石で移され、以来明治2年(1869)まで留守氏が水沢城を居城としてこの地を支配した。
■ 構成
水沢城は、北端に流れる乙女川(御留川)南側の微高地に位置し、本丸・二ノ丸・三ノ丸・南郭の4つで構成されていた。
中世の頃は本丸・二ノ丸が活用され、江戸時代に要害としての役割を果たすようになると、次第に三ノ丸や南郭へ拡張していったものと思われる。
城の外側には水堀をめぐらせ、内側には土塁を配していた。
本丸は北西端に位置し、東西130m×南北110m、二ノ丸は東西140m×南北150mの規模であった。
■ 現況
現在、城域の殆どは市街地化され、遺構は残っていない。
僅かに三ノ丸の土塁上に植えられた「姥杉」と、城の冠木門であった「黒門」が残っている。
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■ 大手通
三ノ丸東側を南北に通っている。
左手に見える木は、かつて土塁上に植えられたという「姥杉」。 |
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■ 三ノ丸
現在は奥州市役所本庁の敷地となっている。 |
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■ 黒門
水沢城にかつてあった冠木門であり、明治時代になって増長寺に移築された。
門が元々あった場所は諸説あり、確定されていない。
腐食防止のために塗られた松煙墨によって黒くなったことから「黒門」と呼ばれていた。
間口4.080m、本柱の高さ5.455m、控え柱の高さ2.887m。 |
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■ 大手門跡
三ノ丸から二ノ丸へ続く大手門跡である。 |
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■ 二ノ丸
現在は宅地となっており、遺構は殆ど残っていない。 |
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■ 南郭
本丸・二ノ丸と同様、遺構は殆ど残っていない。 |
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■ 本丸北側堀跡
現在道路となっているが、かつては水堀であった。 |
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■ 内田氏邸跡
留守氏家臣の屋敷跡である。
内田氏は筆頭家臣・余目氏に次ぐ禄高であった。 |
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■ 余目氏邸跡
留守氏の筆頭家臣・余目氏の屋敷跡である。 |
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