■ 沿革
盛岡城は南部氏の居城であった。
室町時代末期に、この地は不来方(こずかた)と呼ばれ、既に福士氏・米内氏・日戸氏らの居館が存在していた。盛岡城はそれらの館を総合的に利用して築城したものである。
−南部氏の本領安堵−
天正18年(1590)、南部信直は豊臣秀吉によって本領を安堵され、翌・天正19年(1591)に九戸政実の乱を鎮圧すると、新たに和賀・稗貫・志和の三郡を加増され、旧領と合わせて合計10万石を領した。
また、信直は居城を三戸城から九戸城に移し、九戸城の名称を福岡城と改称したが、この福岡城が領内の北に偏りすぎていて不便なため、浅野長政の助言を得て、北上川・雫石川・中津川が合流する浸食段丘上の岩手郡不来方に新たな居城を築く計画を立てた。
−南部氏三代にわたる築城−
築城工事は、信直が朝鮮出兵によって九州名護屋まで出陣したために遅れ、結果的に慶長2年(1597)3月に開始された。着工後、信直はほとんど京都に滞在していたので、工事の総指揮は嫡男である利直が行った。信直はその完成を見る事なく、慶長4年(1599)に福岡城にて没した。
信直の死後、築城は利直が引き継いだ。利直は不来方という旧名を嫌い、「盛り上がり栄える岡」の意味を込めて盛岡城と改称し、福岡城より移ったのは元和年間(1615〜24)の頃といわれている。しかし北上川などが度々氾濫して石垣が崩れたため、一時的に高水寺城を居城するなど、最終的に盛岡城が竣工したのは3代重直の時代である寛永10年(1633)であった。
このように非常に難儀した工事であったが、翌・寛永11年(1634)夏には落雷によって本丸と三層の天守を焼失した。再建されるのは延宝元年(1673)の事である。明治4(1871)年の廃藩置県を経て、同6年に天守閣などの建造物を含めて盛岡城は破却された。
■ 構成
北上川・中津川を天然の外堀に利用し、東西70m南北55mの本丸をはじめ、二ノ丸・三ノ丸・北郭・東郭・本丸腰郭などで構成されている。 本丸には天守の代わりとして三層の櫓が建てられ、他にも二層の櫓が3基建てられた。御殿は本丸が手狭なため本丸・二ノ丸にまたがって建てられ、間を御廊下橋で結ばれていた。
なお盛岡城は東北では珍しく石垣を多用した城として有名であり、会津の若松城と白河の小峰城を加えて東北の「石垣造の三名城」に数えられている。
■ 現況
現在は岩手公園として整備され、国の指定史跡を受けている。
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■ 鳩御門跡 大手門側から三ノ丸へ向かう途中にある。 簡単な桝形になっており、ここを抜けるとすぐに瓦御門があった。 |
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■ 瓦御門跡
盛岡城の建造物はほとんどが板葺であったが、この門は珍しく瓦葺であったという。 この門を抜けると三ノ丸である。 |
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■ 三ノ丸跡 右側の石垣造の桝形が車御門跡、その左にある画像中央の下っていく道が不明門跡。 この三ノ丸を左に行くと烏帽子岩がある。 |
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■ 烏帽子岩 盛岡城築城の際に掘り出された岩。 盛岡城の「お守り岩」として信仰されていたという。 |
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■ 車御門跡 三ノ丸と二ノ丸を繋ぐ門。緩やかな登り坂になっており、桝形が設けられている。 |
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■ 不明御門跡 三ノ丸から淡路丸・御台所屋敷に抜ける門跡である。 |
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■ 不明御門跡脇の巨石 天然の巨石が地表に露出していて、それを避けるかのように石垣が組まれている。 この城が築かれた山自体大きな岩盤であることを示している。 |
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■ 御廊下橋 二ノ丸と本丸は空堀で区切られており、二ノ丸御殿と本丸御殿を直接繋ぐ御廊下橋があった。
画像は二ノ丸側から本丸を望んだところ。 本丸には空堀に沿って多門櫓が建てられていた。 |
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■ 本丸跡 本丸跡は本丸御殿・天守の代わりの三層櫓と2基の二層櫓が建てられていた。
本丸は70u四方の狭さで本丸御殿のみでは手狭だったため、二ノ丸御殿を築き、御廊下橋で繋いでいた。 |
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■ 本丸二層櫓跡 本丸南西隅に建っていた二層櫓跡である。 |
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■ 本丸三層櫓跡 天守を持たなかった盛岡城にとって天守の代わりになったのが本丸南隅の三層櫓であった。 しかし寛永11年(1634)夏には落雷によって三層の天守閣が焼失し、再建されるのは延宝元年(1673)のことであった。 |
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■ 未御門跡 本丸東側からの入口で、淡路丸という腰郭に続いている。 |
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■ 吹上馬場跡 本丸南側に位置し、淡路丸とも繋がっている。 ここには馬場の他、宝蔵や、隅には二層櫓が建てられていた。 |
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■ 三層櫓跡遠望
本丸南側の一段低い郭から望んだところ。 おそらく当時の盛岡城で最も目立っていた建造物であっただろう。 |
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■ 吹上御門を下から見上げる 石垣に沿った長いゆるやかな登り坂である。 現在はここから登るのが一番の観光ポイントであろう。 |
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■ 榊山神社郭跡出入口 多少歪みが生じている感もあるが、こんな所にまで石垣を使用していることがこの盛岡城が 「石垣の城」と呼ばれる所以でもあるのだろう。 |
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■ 鍛冶屋御門跡 これより城の西側から南側を一周するのだが、盛岡城の石垣の規模の大きさを一番実感できるエリアである。 |
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■ 南側石垣 吹上馬場のある腰郭の外周である。一直線に伸びる石垣はとても壮観である。 |
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■ 搦手御門跡 大手門・鳩御門・瓦御門などとは反対側に位置するので、搦手門の名が示すように本丸へ裏から向かうには絶好の近道であろう。 |
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■ 彦御蔵
盛岡城内で唯一の現存建造物である。
建築年代は不明であるが、江戸時代後期に建てられた物と考えられる。 |
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■ 北上古川跡 城の西側にあるこの道路はかつて川であり、水堀の役目を果たしていた。 |
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