成田館 |
訪問年月日 |
2010年5月3日 |
別称 |
成田館 |
所在地 |
岩手県北上市成田5地割 |
創築者 |
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主要城主 |
成田藤内 |
築城年 |
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廃城年 |
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様式 |
平山城 |
構成 |
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遺構 |
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設置・復原物 |
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文化財指定 |
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■ 沿革
成田館は天正18年(1590)の頃は成田藤内の居館であった。
成田藤内は和賀氏の家臣であり、和賀氏の居城・二子城内にも成田藤内館が存在している。
慶長5年(1600)、関ヶ原合戦において、南部氏が出羽国の最上氏救援のため出陣中の間隙を狙い、和賀義忠の子である忠親が一揆を起こした。
しかし一揆勢は花巻城攻撃に失敗し、岩崎城へ撤退する際に岩渡堂に陣を敷いたとされる。岩渡堂を攻撃する南部勢は、途中に位置する成田館を攻撃し、焼き払った。この戦いにおいて成田藤内は討死したという。
■ 構成
飯豊川を挟んで岩渡堂館の北側に位置する。
東側に宿内川が、南側に飯豊川が流れる高台に位置する。
東西約60m×南北約150mの面積であり、東端に那智山高台寺が存在していた。
■ 現況
現在、成田館跡は中学校のグラウンドに使用され、現在は住宅地や水田となっている。
高台寺は南部領となってから盛岡へ移され、現在は養豚場となっている。
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■ 北側外周
北側から東側にかけて宿内川が流れる。 |
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■ 成田一里塚
岩手県指定史跡。館跡の西方に位置する。
二子の一里塚と共に、原型のまま残っているのは全国でもここだけといわれている。 |
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