■ 沿革
野手崎城の創建時期は不明であるが、江戸時代には伊達氏の四十八館に数えられ、所の一つである野手崎所として活用された。
戦国期には葛西氏家臣と思われる及川勘解由利勝がこの地に城館を構えていたとされる。及川氏は天正18年(1590)、豊臣秀吉の奥羽仕置による葛西氏の滅亡と共に没落した。
奥羽仕置により、葛西氏旧領には木村伊勢守吉清が封じられたが、葛西・大崎一揆により失脚した。
その後、木村氏旧領は伊達政宗に与えられ、政宗は大立目内匠と中村九平治を入城させた。大立目氏は天正年間(1573〜92)末期から寛永年間(1624〜44)末期まで城代として高屋敷と呼ばれる郭に居館を置き、南部藩境に備えさせた。
正保元年(1644)、小梁川氏6代中務宗影が城代として入城し、以後小梁川氏が幕末までこの地を支配した。
■ 構成
比高約80mの丘陵上に位置し、頂部が中世時代の主郭であった。
主郭は東西約80m×南北約100mの規模の楕円状であり、周囲に土塁をめぐらせ、北側・東側・南側には帯郭が位置していた。当時の大手は東側に位置していたという。
主郭の南西側には空堀と帯郭を隔てて東西約100m×南北約150mの規模の二ノ丸が位置していた。
さらにその西側には三ノ丸が位置しており、二ノ丸から三ノ丸にかけて南西方向に大手口が伸びていた。
■ 現況
現在、野手崎城跡は梁川集落の中心に位置しており、居館跡や枡形などの遺構が残っている。
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■ 入口枡形跡
元禄8年(1695)、小梁川宗永の代に構築されたとされる。
かつては野手崎の町内両端にも存在したが、現存するのはここだけである。 |
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■ 枡形両端平場
数段の平場が存在する。近・現代の改変かどうかは不明。 |
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■ 高屋敷
藩政時代以前の大立目氏の居館跡である。 |
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■ 大手門跡
向かって右側に曲がる枡形が設けられている。 |
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■ 御蔵厩跡
大手道から続き、さらに南門へ続いている。 |
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■ 烏帽子岩
小梁川氏居館のさらに上部に位置する。 |
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