おおばやしじょう
大林城
大林城 柏山館跡  訪問年月日  2003年4月12日 / 2010年6月6日・12日
 別称  百岡城・生城寺館・柏山館・舞鶴城
 所在地  岩手県胆沢郡金ヶ崎町永沢
 創築者  千葉左近明広
 主要城主  柏山氏
 築城年  建仁元~2年(1201~02)か
 廃城年  -
 様式  山城
 構成  柏山館・松本館・生城寺館
 遺構  土塁・空堀
 設置・復原物  説明板・標柱
 文化財指定  -
 ■ 沿革
大林城は葛西氏の重臣・柏山氏の居城であった。
伝承ではかつて安倍貞任の娘姉妹が住んでおり、2人揃って源義家に懸想して城の機密を漏らしたために落城したと伝えられる。

-柏山氏の成立-
大林城の創建時期は不明であるが、かつては百岡城という名称であった。
当初、唐梅館館主・長坂千葉頼胤の二男である千葉胤広が百岡二郎を名乗り、百岡城を居城にしたとされる。その後、建仁元~2年(1201~02)に初代奥州総奉行である葛西三郎清重の家臣・千葉左近明広(平次郎盛春)が胆沢郡の地頭職に任じられ、百岡の地に下向した。明広は姓を柏山と名乗り、やがて勢力を台頭させて百岡氏を併呑したものと思われる。さらに明広は百岡城を大林城と改称し、家紋の月星紋を三ツ柏紋に改めたという。
柏山氏が胆沢郡の地に勢力を拡大したのを知ると、一族郎党が各地より馳せ参じた。筑紫国より三田氏が、美濃国より大内氏が、近江国より蜂屋氏らが大林城に集まり、彼らの一族は後に柏山氏家臣団の中核を担う事となった。これらは柏山氏が葛西氏の家臣の中でも最大の勢力となる要因ともなった。

柏山氏が史書に初めて現れるのは、康永元年(興国3・1342)の石塔義房の書状である。江刺氏と共に柏山氏の名が登場し、これらを推察すると、この頃既に柏山氏や江刺氏らは、主家である葛西氏を通さずに書状を受けることができる、言わば独立的な領主権を持っていたと思われる。また、主家である葛西氏6代清貞が南朝側に組していたのに対し、家臣である柏山氏・江刺氏は石塔氏の誘いにより、北朝側に組していた可能性も考えられる。

文明8年(1476)、柏山氏と和賀氏が衝突した。事の発端は、和賀右京亮忠氏が柏山氏11代中務少輔清良(下野守明成か)の三男である金崎彦右衛門良建を殺害する事件が起こった事件である。これに激怒した清良は和賀領に攻め入ったが敗退し、その後にも葛西氏の一族である本吉郡新館城主・葛西重高が和賀氏を攻撃するも、またもや和賀氏の勝利に終わった。結果的に、この戦いは稗貫郡大迫城主である大迫又三郎の仲介により、葛西氏と和賀氏の両氏が和睦する事で収束している。

-葛西氏家臣随一の実力者-
明応7年(1498)、葛西氏の内紛である「明応の乱」が勃発すると、薄衣城主・薄衣内匠守清胤(美濃入道)は『薄衣状』を書き、柏山氏の専横を糾弾した。しかし、清胤はその中で柏山氏を評して「樊噲の勇あり」とし、柏山氏の武勇は絶大なものであったと思われる。

天正9年(1581)、柏山氏の中で内紛が発生する。13代伊勢守明吉の跡をめぐって嫡子・伊予守明国に対し、二男・中務少輔明宗、三男・小山九郎明長、四男・折居宮内明久ら三兄弟が叛旗を翻したのである。結果として明国は追放され、14代の当主を明宗が継いだ。

天正18年(1590)、豊臣秀吉の奥羽仕置によって主家・葛西氏が滅亡した。柏山氏も葛西氏に従い、所領を失ったものと思われる。しかし翌・天正19年(1591)、葛西氏の旧領を与えられた木村伊勢守吉清に対して葛西氏の旧臣が各地で蜂起するに至った。柏山領でも明宗の弟である折居明久が兵を挙げ、吉清の家臣である松田源太郎左衛門が城主となっていた水沢城を攻撃している。

-柏山氏最後の当主・明助-
柏山氏15代である伊勢守明助は葛西氏滅亡後、出羽国仙北郡増田にて浪人となっていたが、慶長3年(1598)に南部氏に500石で仕えている。
当初は花巻城の北信愛に従っていたが、慶長6年(1601)に和賀氏の旧臣が蜂起した際、明助は一揆鎮圧に功をあげ、戦後に和賀郡で1,000石の知行を賜って岩崎城代に任じられた。しかし寛永元年(1624)、明助が死去した後、嫡子・明定や次男・明信らも次々と亡くなり、最期に三男・明道が跡を継いだが、間もなく明道も急死し、柏山氏は無嗣断絶となった。
明助の死は暗殺の疑いも伝わっている。一説には明助の剛勇を恐れた主君・南部信濃守利直が明助を花巻城に誘い出し、毒殺したという。その際、利直の二男である花巻城主・南部彦九郎政直も巻添えとなって落命している。


 ■ 構成
大林城は北側を流れる永沢川と南側を流れる胆沢川の、標高104~9mの丘陵上に位置する。
全体の面積は東西490m×南北350mと大規模なものであり、城域は大きく分けて北郭の柏山館と西郭の松本館、東南郭の生城寺館の三つに分けられる。
主郭に該当するのは柏山館であり、東西120m×南北200mの面積で四周を幅10~20mの空堀で囲まれている。南西側の空堀は松本館と、南東側の空堀は生城寺館に隣接している。
松本館は二ノ郭と推定され、馬場跡ともいわれる。東西50m×南北40mの規模である。


 ■ 現況
現在、柏山館跡は果樹園、グラウンド、岩手県立県南青少年の家の敷地となっている。
遺構としては一部、空堀跡が残る。
松本館跡は雑木林や民家・水田となり、生城寺館は生城寺の敷地となっている。

■ 大林城標柱
城跡を縦断する県道235号線沿いに設置されている。
■ 堀跡
現在は県道235号線となっている。
■ 柏山館跡
現在は岩手県立県南少年の家の敷地及び果樹園となっている。
■ 柏山館空堀跡
グラウンド脇の道路がかつての空堀跡である。
■ 柏山館跡
岩手県立県南少年自然の家の南側は果樹園や雑木林となっており、空堀や土塁などの遺構が残る。
■ 柏山館空堀跡
柏山館と生城寺館を区切る空堀跡。
■ 柏山館空堀跡
画像左側が柏山館、右側が断崖を隔てて生城寺館である。
■ 柏山壇跡
大林城初代城主である柏山明助を祀ったものとされる。
■ 松本館跡
一部空堀跡が残る。
■ 生城寺館跡
生城寺の敷地となっている。
■ 家臣団屋敷跡
現在はホテルみどりの郷の敷地となっている。
■ 家臣団屋敷跡
北側の切岸跡。
■ 家臣団屋敷跡
北側全景。
■ 大林城跡遠望
南側より望む。
■ 地図
説明板より。