■ 沿革
大萱生館は河村氏の一族である大萱生氏の居館である。
文治5年(1189)、奥州合戦において河村秀清が軍功を立て、源頼朝に陸奥国岩手郡・志和郡の北上川東側に所領を与えられた。大萱生氏はその河村氏の一族であったと思われる。
−斯波氏から南部氏へ−
創建時期は不明であるが、天正年間(1973〜1593)に鷲内玄蕃秀重が大萱生館の館主となり、大萱生氏と改姓したとされる。秀重の妻は斯波詮直の叔母であったため、大萱生氏は斯波氏の家臣となっていた。しかし、同じ斯波氏家臣である高田吉兵衛康実が出奔して南部氏の下に逃れると、斯波氏と南部氏が対立し、秀重も康実の誘いに乗って南部氏側に組した。
−落城−
天正16年(1588)、斯波氏が南部氏に滅ぼされると、秀重は南部氏に重用された。しかし旧主・斯波詮直が大萱生氏を頼って落延びてくると、秀重がこれを匿っている事が露見し、天正17年(1589)10月、南部信直の攻撃を受けて大萱生館は落城した。後に秀重は康実の取成しによって信直に赦され、大萱生氏は旧領を安堵されて大萱生館を居館とし、江戸時代まで続いた。
■ 構成
大萱生館は標高341mの丘陵上に位置し、中央部に位置する主郭と、東西にそれぞれ副郭が位置していた。主郭には帯郭が取巻いていた。
■ 現況
現在、大萱生館跡は瀧源寺背後に位置する。
館跡は果樹園や雑木林となっており、大萱生館歴代館主の墓所が祀られている。
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■ 空堀跡
西側に延びる尾根を分断するように空堀が存在する。 |
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■ 館跡入口
「大萱生歴代城主の墓」の看板が設置されている。 |
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■ 段築
西側に延びる尾根先端。数段の段築が存在している。 |
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