おおはらじょう
大原城
大原城 主郭南側段築  訪問年月日  2011年7月17日
 別称  山吹城
 所在地  岩手県一関市大東町大原字川内
 創築者  千葉飛騨守宗胤
 主要城主  大原氏・粟野氏
 築城年  寛喜年間(1229〜1231)
 廃城年  −
 様式  山城
 構成  主郭・ニノ郭・三ノ郭
 遺構  郭・土塁・段築
 設置・復原物  標柱・地図板
 文化財指定  −
 ■ 沿革
大原城は大原氏の居城である。路地に植えた八重山吹から山吹城とも呼ばれる。
大原氏は葛西氏家臣である千葉氏と同族であり、東山の地にて5万貫余の知行を擁するともいわれる有力氏族であった。

−二系統に分かれる大原氏−
大原氏の始祖は千葉頼胤の三男・宗胤とされるが、諸説あって明らかではない。一説には大原氏は宗胤を祖とする前期と、別系統の大原氏が継いだ後期に分けられるともいわれる。
いずれにせよ、始祖である宗胤は寛喜元年(1229)に葛西氏に仕え、翌・寛喜2年(1230)に陸奥国へ下向したとされるので、大原城を居城としたのもその頃と思われる。

建治2年(1276)、千葉臼胤の子孫である飛騨守胤常が陸奥国に下向し、大原氏を継いで大原城に入った。この臼胤は頼胤と同族とされるが、この新旧大原氏の交代劇の真相は不明である。
文明6年(1474)、大原氏9代肥前守広忠は気仙郡の熊谷氏を出奔してきた熊谷丹波守直氏に対して大原郷内野里の50町を与えており、その勢力が伺える。翌・文明7年(1475)には大原氏と気仙郡の矢作氏とが気仙郡横田村にて合戦に及び、10代飛騨守信広の五男・信綱が15歳で討死している。この合戦の原因と結末は不明であるが、恐らく大原氏側の敗北であるとみられる。

−明応の乱−
明応7年(1498)、明応の乱においては、『薄衣状』には大原肥前守と大原伯耆守の名が見える。同状では奥州探題である大崎氏の継嗣問題に介入し、大崎氏側に付いた薄衣勢に見方した肥前守が摺沢城に籠っていたことが分かる。一方、伯耆守は世田米伊豆守や鱒沢越前守らと共に葛西勢側に回ったことが伺える。この肥前守とは広忠が比定されるが、彼は文明14年(1482)に没しているので、ここは10代信広が妥当であろう。ちなみに信広の室は薄衣美濃入道の義弟にあたる。変わって伯耆守とは信広の嫡子・大原氏11代刑部信明かと思われる。また、後に信明は700余町を与えられているが、これは戦後に葛西氏による恩賞と考えられる。
ついで永正元年(1504)には信明が気仙郡矢作郷において浜田安房守基綱と交戦に及び、これを破っている。
12代飛騨守信胤は信明の二男であり、天文12年(1543)には伊達晴宗の書状を受け、天文の乱において柏山伊勢守明吉、富沢左衛門らと共に稙宗側に付いた葛西晴清(牛猿丸)、大崎義宣(小僧丸)らと対峙している。

−東山の雄・大原氏−
信明より次第に勢力を伸張していった大原氏の全盛期は14代飛騨守信茂(胤重か)の代である。信茂は主家・葛西氏15代晴胤の二男であり、大原氏に入嗣して13代信光の跡を継いだ。これにより大原氏は葛西氏の一族として家臣団の中でも屈指の勢力を有するようになった。
重胤は永禄2年(1559)の及川騒動を鎮め、天正15年(1587)には藤沢城主である岩渕近江守と合戦に及んでいる。

−奥羽仕置と葛西氏没落−
天正18年(1590)、豊臣秀吉による奥羽仕置において、主家である葛西氏と共に大原氏は没落した。翌・天正19年(1591)には葛西・大崎一揆において大原氏16代飛騨守重光も蜂起したが、鎮圧軍に敗れて陸奥国桃生郡深谷にて重光が討死し、ここに大原氏は滅亡した。その後、大原氏は浜田氏と共に遠野へ逃れ、重光の弟である経光は南部信直に仕えたとされる。
 一揆平定後、豊臣秀吉の家臣であった石田三成が大原城を修築して伊達政宗に引き渡したとされ、政宗は粟野大膳大輔を地頭に任じて大原城に配した。


 ■ 構成
大原城は標高145〜205m、比高約70mの丘陵上に位置している。
城域は東西約700m×南北約250mであり、主郭である最頂部の面積は東西約100m×南北約45mである。東側に位置する二ノ郭は主郭より4〜5m低い位置にある。主郭の東側に大銀杏が生えており、その脇には祠が祀られている。二ノ郭に面する東端には虎口状の土塁が設けられている。
二ノ郭は東西約70m×南北約60mの面積であり、東端には土壇が設けられている
三ノ郭は主郭の西側に位置し、東西21m×南北18mの面積である。


 ■ 現況
現在は館山公園として整備され、各郭の遺構は良好に残っている。

■ 大手門跡
南側よりの入口。
■ 大手道
つづら折りの山道が続く。
■ 石塁か
途中巨石が積み上げられている。
■ 主郭遠望
主郭南側の段築が確認できる。
■ 主郭
最頂部に位置する。
■ 主郭東側
大銀杏の老木が残る。
■ 主郭標柱
大銀杏の脇に祠と共に建つ。
■ 主郭より二ノ郭を望む
■ 主郭東側虎口跡
主郭東端に位置し、二ノ郭と繋がっている虎口状の土塁跡。
■ 二ノ郭
主郭東側に一段低く位置する。
■ 二ノ郭東端虎口跡
主郭同様、東端に虎口が位置する。
■ 二ノ郭より主郭を望む
段築が鮮明に見える。
■ 主郭〜三ノ郭空堀跡
幅約10m程度の空堀が設けられている。
■ 三ノ郭
主郭の西側に位置する。
■ 搦手跡
城域東側に位置する。
■ 遠望
南側より望む。