笹間館 説明板 |
訪問年月日 |
2003年9月23日 / 2009年4月18日 |
別称 |
− |
所在地 |
岩手県花巻市北笹間 |
創築者 |
− |
主要城主 |
笹間氏 |
築城年 |
− |
廃城年 |
− |
様式 |
平城 |
構成 |
東館・西館・外郭 |
遺構 |
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設置・復原物 |
説明板 |
文化財指定 |
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■ 沿革
笹間館は和賀氏の主要な城館であったと思われるが、詳細は不明である。
笹間の地は飯豊川流域の中で最も肥沃な土地であり、和賀氏・須々孫氏・稗貫氏ら三氏の所領接触地域であった。永享7年(1435)、須々孫氏と和賀氏は笹間周辺の地をめぐって衝突し、結果的に須々孫氏は和賀氏に降った。その後の天正年間(1573〜93)頃には笹間は和賀氏の宗家の知行地となっていたとされる。
後に天正18年(1590)の豊臣秀吉の奥羽仕置において、和賀氏が所領没収となった際に笹間館は破却されたものとみられる。
−発掘調査の結果−
昭和61年(1986)に圃場整備事業による消失のため発掘調査が実施され、15世紀前半の頃の物と思われる炭化米が出土した。これは永享年間(1429〜40)頃の須々孫氏と和賀氏との抗争時の物と推定される。
この調査後、遺構はほとんど破壊されている。
■ 構成
笹間館は大きく分けて西館と東館を中心に、他4つの外郭を含む6郭によって構成されていた。
総面積は24,000uで東西約300m×南北約200mの広さであり、西館が7,200u、東館が6,200uの面積であった。
西館と東館は幅11〜14m・深さ4mの大規模な水堀で分断され、土橋で連結されていた。その他の郭においてもそれぞれ幅10m以上の水堀によって分断されていた。
主郭は西館であったと推測され、東館は家臣団の屋敷が形成されていたと思われる。
■ 現況
現在は圃場整備事業によって遺構はほとんど破壊され水田となっており、往時を偲ぶことは出来ない。
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