■ 沿革
下煤孫城は須々孫氏の居城である。
いつの頃か上煤孫城より居城を移したとされるが、その時期は明らかではない。
−上煤孫城よりの移転−
須々孫氏は和賀氏の有力氏族であり、南北朝時代には南朝方に属して北朝方の和賀氏としばしば争うまでの勢力を持つ様になり、「西和賀殿」と称された。
暦応3年(興国元・1340)、同じ和賀氏一族で南朝方に属していた鬼柳氏が北朝方に寝返り、下煤孫城を攻撃するに至った。これは翌年、岩崎城合戦において鬼柳氏を撃退することに成功している。しかし、南朝方は南部師行や北畠顕家らが討死すると勢力が衰え、やがて須々孫は和賀氏へ屈するようになった。
こうした経緯の中で、下煤孫城がどのように廃されたのかは明らかではないが、天正18年(1590)の豊臣秀吉の奥羽仕置において、和賀氏が所領没収となった際に廃城となったものと思われる。
−煤孫氏の最期−
慶長5年(1600)の和賀一揆において、和賀忠親が岩崎城に立籠もった際に煤孫氏が大手門の守将を務めたとされる。この一揆に参加したのは煤孫下野守治義(義重と同一人物か)と、その子である義甫・隆義らである。
慶長6年(1601)、一揆が鎮圧されると、治義は主君・忠親らと共に自害したとも、伊達政宗に殺害されたともいわれる。
■ 構成
下煤孫城は比高約35m、東西約170m×南北約250mの規模である。
主郭は約15,000uであり、北西側から南東側にかけて幅約10mの大規模な空堀で区切られている。南側も丘陵基部より鉤型の空堀で区切られ、土塁が設けられている。また、主郭の南側に約1,000uの郭と、北東には帯郭が認められる。
■ 現況
現在、主郭跡には古館神社が祀られ、土塁・空堀等の遺構が良好に残っている。
また、西側に農道が通り、南側には秋田自動車道が通っている。
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■ 入口
北側の入口である。古館神社の参道を徒歩で登ることも、農道を車で登ることもできる。 |
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■ 帯郭
帯郭の一部は登り道として利用されている。 |
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■ 主郭
東西約170m×南北約250mの面積である。 |
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■ 主郭空堀跡
北西側から南東側にかけて主郭を分断している。 |
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■ 主郭西側入口
「観音館跡」の標柱が建てられている。 |
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