寺林城跡 |
訪問年月日 |
2003年8月2日 / 2009年11月7日 |
別称 |
− |
所在地 |
岩手県花巻市石鳥谷町中寺林 |
創築者 |
河野通重 |
主要城主 |
河野氏・稗貫氏・浅野六兵衛 |
築城年 |
弘安2年(1279) |
廃城年 |
天正20年(1592) |
様式 |
平城 |
構成 |
主郭 |
遺構 |
土塁・空堀・二重堀 |
設置・復原物 |
説明板 |
文化財指定 |
− |
■ 沿革
寺林城は弘安2年(1279)、伊予国の御家人・河野通信の孫である通重が稗貫郡に入部した際に居城としたとされる。
−永享の大乱−
永享7年(1435)、和賀小次郎義篤と須々孫伊賀守らが争った「永享の大乱」が勃発した。
当初、稗貫出羽守は須々孫勢に属していたが、和賀勢の援軍として南部氏14代義政が参加すると須々孫勢は劣勢になっていった。翌・永享8年(1436)、義政は不来方城を拠点にして寺林城を落城させ、稗貫氏の居城である十八ヶ沢城(本館)も攻撃するなどしたため、稗貫氏は形勢不利に陥った。そこで稗貫出羽守は南部氏に和議を申し入れ、南部氏に降ったという。
−奥羽仕置−
天正18年(1590)、豊臣秀吉の奥羽仕置の際には浅野六兵衛の陣所となっているが、六兵衛は同年の和賀一揆において二子城の城代である後藤半七らと共に討死した。
その後、寺林城は南部信直によって奪還され、土豪の某左平次によって管理されていたが、天正20年(1592)に破却された。
■ 構成
寺林城は北に葛丸川、南に耳取川が流れる段丘の東縁に位置する。
主郭は光林寺境内と推定され、寺の入口には枡形と土塁が設けられていた。光林寺の北西側には上幅約6mの二重堀と土塁が配されている。
■ 現況
現在、主郭跡には光林寺の敷地となっており、境内の北西側の裏手には二重堀が残る。
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■ 二重堀跡
光林寺北側から西側にかけて位置する。
画像は北側のもの。上幅約6mの規模である。 |
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■ 二重堀跡
西側に位置する。一部枡形状となっている。 |
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