■ 沿革
轟木館は和賀氏家臣である轟木氏の居館である。
天正年間(1573〜93)の頃は轟木兵庫が館主であった。慶長年間(1596〜1615)には兵庫の子(一説には孫)である轟木長右衛門が和賀氏滅亡に際に南部利直側に寝返り、700石で迎えられた。長右衛門は南部勢として慶長5年(1600)の関ヶ原合戦や慶長19年(1614)〜20年(1615)の大坂の陣に参戦するなど活躍したが、いずれのうちに亡くなったという。
その後、館主のいなくなった轟木館は廃城となったものと思われる。
−怨念伝説−
轟木長右衛門が南部利直に仕えていた際、長右衛門の正室が愛妾の一人を憎み、ある時に奸計を用いてその愛妾が他人と密通していると長右衛門に訴えた。長右衛門はこれに激怒し、詮索もせずに居館近くの将軍寺において愛妾を殺害した。
その後、この愛妾の怨念か、長右衛門の子息は次々と死去し、正室も亡くなった。また、これを救わなかった将軍寺の住職にも怒りが向けられ、寺の修繕をしようとすると必ず事故が置き、やがて将軍寺は廃寺になったという。しかし、この将軍寺は現在も存在している。
■ 構成
笹間の街道が集結する地域に位置する。
方形単郭の館であり、一辺は約100mの規模であったと考えられる。
高さ5m・幅約10m程度の土塁と幅約5〜6mの堀跡が残る。
■ 現況
現在、宅地と水田となり、土塁の一部が残る。
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■ 遠望
西側より望む。
宅地の中に大規模な土塁が一際目立つ。 |
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■ 土塁
高さ約2m程度の土塁が南北に伸びている。 |
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■ 堀切か
土塁中央部に穿たれた堀切。後世の改変の可能性が高い。 |
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