■ 沿革
土沢城は、南部氏が隣接する仙台藩との藩境の守備を固めるために築いた城である。
この地にはかつて中世の頃に十二鏑館と呼ばれる城館が存在していたとされるが、その詳細は不明である。
慶長5年(1600)の関ヶ原合戦の際、南部氏の支配下にあった田瀬館や安俵城が葛西氏旧臣による一揆勢に攻撃された。これは伊達政宗の煽動によるものとされる。また、伊達氏が自領の上口内城を整備した事により、南部氏としても伊達氏への対応の必要性が高まった。
−土沢城主・江刺氏−
慶長17年(1612)、盛岡藩初代藩主・南部利直は野田内匠頭直盛に縄張りを命じ、土沢城の築城に取り掛かった。結果、翌年の慶長18年(1613)には完成し、江刺長作隆直を新堀館より2,000石で移住させて城主とした。
江刺氏は葛西氏の家臣であったが、主家が豊臣秀吉による奥羽仕置によって所領没収になった後は南部氏に仕え、九戸政実の乱や和賀一揆の際にも活躍した。隆直の後は2代・勘解由春隆、3代・勘兵衛長房と続いている。
−廃城へ−
正保4年(1647)、城下町の大火により土沢城も延焼し、建造物は残らず消失したが、間もなく再建されている。しかし2代藩主・重直の時代になると、情勢も安定した事により土沢城の存在の重要性も薄れた。このため寛文10年(1670)、江刺氏4代・市左衛門隆真の代に廃城となった。
江刺氏は廃城後も城内小路に拠って領内を統治していたが、天明元年(1781)に御家騒動によって断絶した。
■ 構成
土沢城は、前方に猿ヶ石川、後方に釜川を配した丘陵である館山に位置する。
御本館・中館・西館・東館・大手桜丸・腰郭などによって構成され、城内中段に侍屋敷、その下に足軽屋敷を配し、外側には町民屋敷を置いた。
寛永年間(1624〜43)の絵図によると以下の規模である。
本館 |
東西34間×南北35間 |
(約4,340u) |
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中館 |
東西9間×南北18間 |
(約590u) |
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西館 |
東西34間×南北14間 |
(約1,740u) |
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東館 |
東西12間×南北15間 |
(約610u) |
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無名郭(腰郭) |
東西17間×南北15間 |
(約930u) |
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堀 |
幅6間、深さ1尺5寸 |
(幅11.5m、深さ約45cm) |
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侍屋敷 |
表口14間、奥行21間 |
(約1,070u) |
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足軽屋敷 |
表口7間、奥行21間 |
(約540u) |
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■ 現況
現在は館山公園として整備され、各郭の遺構は良好に残っている。
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■ 大手道
館跡の西側よりの入口。古地図ではこちらが大手道であったとされる。 |
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■ 大手橋跡
現在は水堀が残るが、橋は残っていない。 |
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■ 堀跡
北側から西側の外周を覆う外堀跡。
現在は小道となっている。 |
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■ 登道
下から直登できる道が設けられている。
恐らく後世のものと思われる。 |
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■ 大手桜丸
大手道の途中に位置する。
恐らく門や番所などの施設が設けられていたものと思われる。 |
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■ 御本館大手門跡
建造物は現存しないが、大手門跡の遺構が明瞭に残っている。 |
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■ 北側外堀跡
画像左手が御本館跡。比高は10m程度、幅5m程度の規模である。 |
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■ 北側外堀跡
上記画像より後ろ側を望んだところ。 |
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