うすぎぬじょう
薄衣城
薄衣城跡  訪問年月日  2011年5月3日
 別称  葛丸館・古館・搦手館・米倉館
 所在地  岩手県一関市川崎町古館
 創築者  千葉弥四郎左衛門尉胤堅
 主要城主  薄衣氏
 築城年  建長5年(1253)
 廃城年  天正18年(1590)
 様式  山城
 構成  主郭・二ノ郭・三ノ郭・四ノ郭
 遺構  郭・堀切・櫓台・井戸
 設置・復原物  標柱・説明板
 文化財指定  市指定史跡
 ■ 沿革
薄衣城は葛西氏家臣の薄衣氏の居城である。

−千葉氏から薄衣氏へ−
越前国大野郡鳥田城を居城としていた千葉弥四郎左衛門尉胤堅は、建長4年(1252)に陸奥国栗原郡の地に3,000余町を賜り、その抑えとして陸奥国に下向した。当初は磐井郡薄衣荘に居住したが、建長5年(1253)に薄衣城を築いて居城とした。
その後、千葉氏4代内匠頭清村は暦応2年(延元4・1339)、葛西高清と交戦したが敗北し、その結果、千葉氏は葛西氏に臣従する事となった。この頃より千葉氏は薄衣氏を名乗ったものと思われる。

−薄衣美濃入道と明応の乱−
薄衣氏10代清胤は美濃入道とも称し、武勇の誉れが高かった。清胤は登米郡西館館主である葛西和泉守重信の二男に生まれ、葛西氏9代満信から見て孫に当たる。寛正年間(1461〜1466)頃、薄衣氏9代清房の長女と婚姻関係を結び、薄衣氏を継いだ。しかし、清房の末子である常盛は清胤の入嗣を不服とし、両者の関係は険悪なものであった。
明応7年(1498)、奥州探題・大崎義兼の命を受け、清胤は江刺氏と共に出陣したが、その際に常盛が長谷城を拠点として謀反を起こした。清胤は急遽、薄衣城に引き返したが、本吉郡の元良信濃守清継(本吉大膳大夫信胤)により薄衣城を包囲される。やがて葛西氏総領・政信までもが薄衣城の攻撃に向かうと、圧倒的に籠城側が不利な状況に陥った。これにより清胤は自害も意識したが、米谷左馬助常直に諭され思い留まり、大崎氏や伊達氏に救援の書状を送った。これが後に『薄衣状』と呼ばれ、当時の葛西氏の内情を窺い知る事ができる貴重な史料となっている。

この内乱は伊達氏の応援を受け収束に向かう。葛西氏は伊達氏の力を借りた事により、結果的に葛西満重の養子に伊達成宗の二男である宗清が入る事となった。これにより葛西氏13代総領には伊達氏の血を引く宗清が継ぎ、伊達氏の影響を大きく受けるようになる。
また、薄衣氏は清胤に代わって常盛が継いでおり、清胤は文亀2年(1502)に没した。ただし、清胤の子孫が滅びた訳ではなく、清胤の長男・上総介清貞とその子孫の系譜も残っている。

−内紛と衰退への道−
永正7年(1510)、清貞は金沢兵庫助冬胤と合戦に及んだ。金沢勢には湧津城主・岩渕三河守経定、金沢北館城主・熊谷武蔵守晴実らが助勢し、薄衣勢には松川城主・松川右馬助胤光が従った。結果、薄衣勢側は胤光が討死するなどして、薄衣側の敗北という結果に終わった。
この様に薄衣氏の勢力は衰退に向かったが、依然として精強さは保ち続けており、永禄4年(1561)に薄衣上総介清正が鳥畑越中守胤堅と争った際、鳥畑氏を敗走させ大原飛騨守信茂の下へ落延びさせている。また、天正11年(1583)には薄衣因幡守清度が奥玉館主・千葉大膳太夫胤時と合戦に及び、胤時もまた信茂の下へ逃れるところまで追込んでいる。
しかし、これらの鳥畑氏や千葉氏らは薄衣氏の一族であり、内部紛争が絶え間無く続いていたとも見て取れる。

−薄衣氏の滅亡−
天正18年(1590)、豊臣秀吉による奥羽仕置に置いて、薄衣氏の主家である葛西氏は所領没収となった。
この処分に不満を持った葛西氏の旧臣たちは、天正19年(1591)に蜂起するが、秀吉の命を受けた伊達政宗の軍勢に敗れ、佐沼城に逃れる。佐沼城は伊達勢に包囲されるが、一方、同じく秀吉の命を受けた蒲生氏郷が中街道高清水より進軍を始めた。これに対して薄衣氏最後の当主である薄衣甲斐守常雄が立向かい、森原山にて激突した。薄衣勢は奮戦したが多勢に無勢、敢無く敗れ薄衣城まで敗退し、弟の左馬助常義と共に討死した。一説には北上川中河原にて自刃したともいう。


 ■ 構成
千厩川と北上川の合流地点の南方約500m、北上川東側の高台に位置する。西側は北上川に面する断崖であり、南側も比較的急な斜面となっている。
最頂部を主郭とし、その西側に二ノ郭が位置する。また、主郭の東側には堀切を隔てて三ノ郭・四ノ郭が位置する。『仙台古城書上』によると、主郭は東西45m×南北31m、二ノ郭は東西53m×31mの規模であったとされるが、若干符合していない。三ノ郭は東西60m×南北100m規模である。
大手道は南側に位置していたとされ、一方搦手道は西側に位置していた。


 ■ 現況
現在、主郭と二ノ郭は公園として整備され、標柱・説明板が設置されている。
三ノ郭は畑地となっており、四ノ郭は雑木林である。

■ 大手門跡か
南側より登り、二ノ郭に行き着く。
■ 二ノ郭
主郭西側に一段低く位置し、規模は主郭とほぼ同等である。
■ 二ノ郭高台
二ノ郭中央部に位置する高台。櫓跡であろうか。
■ 二ノ郭全景
主郭より望む。
■ 主郭遠望
二ノ郭より望む。
■ 主郭虎口
門跡と思わしき遺構が残る。
■ 主郭西側空堀跡
主郭と二ノ郭の間に位置する空堀跡。
■ 主郭標柱
頂部に位置する。
■ 主郭
■ 井戸跡か
主郭に残るが、後世のものかは不明。
■ 三ノ郭
現在は畑地となっている。
■ 堀切
主郭と三ノ郭を区切る堀切。
■ 四ノ郭
雑木林となっている。
■ 二ノ郭よりの眺望
西側を北上川が流れる。
■ 搦手道
城跡西側よりの道。
■ 搦手入口
標柱が設置されている。
■ 縄張図
説明板より。