■ 沿革
八重幡館は稗貫氏の重臣であった八重幡氏の居館である。江戸時代以降は「八重畑」と表記されている。
−稗貫氏の執権、八重幡氏−
八重幡館の創建時期は明らかではないが、八重幡氏は稗貫氏の始祖である藤原広重(伊達氏始祖である朝宗の四男。為家とも)の子・重真(為重か)を始祖とする。重真は後に八重幡信濃守光直と名乗ったと思われる。
広重は源頼朝の平泉合戦に従い軍功を挙げ、建久8年(1197)に陸奥国稗貫郡を賜った。しかし広重はまもなく死去し、子である重真の代に稗貫郡小瀬川城を居城として入部したとされる。
このように両家は密接な関係であったとされ、八重幡氏は「稗貫氏の執権」とまで称されている。
永享7年(1435)の「永享の大乱」により、稗貫氏の居館である小瀬川館が南部氏14代義政によって攻撃された際、稗貫勢側の八重幡豊前守が奮戦したことが伝わっている。
さらに元亀2年(1571)、斯波氏と南部氏が境界争いによる抗争に発展した際に、八重幡氏は調停役を務めるなどして活躍している。
−主家滅亡−
天正18年(1590)、豊臣秀吉による奥羽仕置により、八重幡氏の主家である稗貫孫二郎広忠は所領没収となった。当時の八重幡氏の当主は八重幡美濃守であったが、美濃守は主家に従い、八重幡氏も没落したとされる。
その後、同年に和賀氏・稗貫氏が蜂起した際、一揆勢の中に八重幡掃部なる者の名が見える。掃部は稗貫広忠に従い、鳥谷ヶ崎城の攻撃に参加した。
■ 構成
八重幡館は北上川と二郷川が合流する左岸に位置する丘陵上に存在する。
本丸・二ノ丸・三ノ丸・内館・出丸・牢舎などの郭が連郭式に配置され、それぞれの郭が堀によって
区切られており、一部には土塁が設けられていた。また、郭と郭をつなぐ土塁も数ヶ所に存在していた。
■ 現況
現在、館跡は耕作地や住宅地となっており、各郭の遺構の消失は著しいが一部の堀や土塁跡が残る。
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■ 本丸跡
北西端に位置する。これより東側に画像奥へ二ノ丸・三ノ丸が続く。 |
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■ 本丸・二ノ丸間の段差
画像右側が本丸。二ノ丸側が一段高く位置している。 |
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■ 二ノ丸跡
芽室自動車学校岩手教習センターの敷地となっている。 |
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■ 三ノ丸跡
北からの遠望である。土橋によって二ノ丸・三ノ丸間が繋がれていた。 |
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■ 出丸跡
東南端に位置する。
馬場や武術場などが存在していた。 |
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■ 出丸〜内館間跡空堀
出丸と内館を隔てる堀跡である。 |
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■ 八幡神社
内館の北西側、一段高い場所に祀られている。 |
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■ 大手道
館跡を東西に横断している。
道路左側が二ノ丸、右側が内館。 |
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■ 街道跡
館跡北側を通る。
画像右側には説明板が設置されている。 |
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