古川城跡 標柱  訪問年月日  2003年8月13日 / 2006年11月3日
 別称  −
 所在地  宮城県大崎市古川二ノ構
 創築者  大崎教兼の第6子
 主要城主  古川氏・木村氏・鈴木氏
 築城年  ?
 廃城年  正保2年(1645)
 様式  平城
 構成  本丸・二ノ丸・三ノ丸・外郭
 遺構  土塁・堀
 設置・復原物  説明板
 文化財指定  −
 ■ 沿革
室町時代の頃に大崎氏7代教兼の6子がこの地に居館を構えたのが始まりと伝えられる。
その後子孫は古川氏を名乗り、天文年間(1532〜55)の頃には古川刑部少輔持熈(もちひろ)が城主であったといわれる。

−大崎氏への反乱−
天文3年(1534)、泉沢城主である新井田安芸守頼遠が主君大崎義直に叛くと、古川城の持熈もそれに従った。天文5年(1536)6月、叛乱に手を焼いた大崎義直は伊達稙宗に救援を求め、それに応じた稙宗は3,000騎をもって大崎領に侵攻した。持熈は古川城に立籠もってこれを迎え撃ったが、結果敗れて自害した。

後の天正年間(1573〜91)には古川弾正忠隆が城主であったと伝えられる。
天正18年(1590)年、豊臣秀吉の奥州仕置によって大崎氏は滅亡し、葛西・大崎領には木村伊勢守吉清が転封された。その際、古川城には吉清の子である清久が入城している。その後木村氏は葛西・大崎一揆による責をもって失脚した。

−伊達政宗の支配下に−
木村氏の後、この地は伊達政宗に与えられ、政宗は重臣である鈴木和泉守元信を古川城に配した。
鈴木氏は元信の子重信、その子宗良と3代続いたが、正保2年(1645)、桃生郡深谷に転封され、その後古川は藩の直轄の地になり古川城は廃城となった。


 ■ 構成
古川城は大崎平野の中心部に位置する。
本丸は古館とも呼ばれ、東西150m×南北150mの規模であった。外周は堀によって囲まれ、内部は土塁を巡らせていた。また大手口は南東側に位置していた。
二ノ丸は本丸の南に位置し、さらにその南に西館と呼ばれる三ノ丸が位置していた。また、本丸の北西には外郭が設けられていた。


 ■ 現況
現在古川城跡の大部分は宅地化されており、本丸跡は古川第一小学校、外郭は古川中学校の敷地となっている。

■ 入口
古川第一小学校の正門であるが、当時の大手門は南東に存在した。
■ 本丸跡
現在は古川第一小学校の敷地である。
■ 本丸跡南側
画像右側は二ノ丸に当たる。
■ 東側堀跡
城の東側を流れる諸絶川に繋がっている。
■ 外郭跡
本丸跡北側に位置する。
現在は大部分が古川中学校の敷地となっている。
■ 館稲荷神社
外郭南端に位置する。
■ 二ノ丸跡
現在は殆ど市街地化されており、遺構は残っていない。





ふるかわじょう
古川城