郷六城  訪問年月日  2008年3月21日
 別称  江六城・郷六館
 所在地  宮城県仙台市青葉区郷六
 創築者  国分胤通
 主要城主  郷六氏
 築城年  12世紀後半か
 廃城年  −
 様式  山城
 構成  主郭
 遺構  郭・土塁・空堀・水堀
 設置・復原物  標柱
 文化財指定  −
 ■ 沿革
郷六城は国分氏の有力氏族である郷六氏の居城である。
国分氏始祖である胤通が12世紀後半、陸奥国に入部した際に最初に居城とし、後に千代城へ移ったとされている。

−国分氏の氏族・郷六氏−
郷六城にはその後も胤通の親族もしくは重臣が残り、郷六氏を名乗ったと思われる。
建久7年(1196)、国分氏3代胤重の弟である胤継は郷六丹後守政国の養子となり、郷六城に入城した。また、文禄4年(1595)、国分氏15代盛氏の弟である盛貞は、郷六大膳盛継の養子になっている。その後、盛氏の庶子である盛政が盛継の跡を継ぎ、愛子と郷六の2ヶ郷を支配した。
盛政の跡は盛政の子である盛元は一時、霞目城に住んでいたが、後に郷六城に戻り、跡を継いだ。盛元は後に出家して相模入道道与と名乗っている。

その後、盛元の嫡子である政治が跡を継ぎ、政友・重元と続くが、天正5年(1577)、伊達晴宗の五男・政重が国分氏に入嗣して盛重と名乗り、国分氏は伊達氏の実質的な家臣となると、郷六氏は郷六郷を没収され愛子に移り、郷六城は廃城となった。

−郷六氏から森田氏へ−
重元の代である慶長元年(1596)には宗家・国分氏が没落し、郷六氏はあらためて伊達氏の家臣となった。
重元の嫡子である元猶は文禄年間(1593〜96)の初め頃、政宗の不況を買って一時所領を没収された。しかし後の働きで許され、慶長3年(1598)、元猶は森田杢右衛門と名乗り、森田氏の祖となった。


 ■ 構成
郷六城は広瀬川南岸に位置し、東西約180m×南北約300mの単郭の城館であったと思われる。
城の北側に堀切を配し、南側に水堀を持って区切っており、西側に土塁、東側は急斜面で区分されていた。
入口は北東隅に位置していた。


 ■ 現況
現在は主郭跡は畑地となっている。また、空堀が残り、一部堀跡が溜池となっている。

■ 入口
主郭東北に位置する。
■ 主郭入口
■ 主郭
現在は畑地となっている。
■ 北側堀跡
堀底が道路となっている。
■ 堀跡
■ 宇那禰神社入口
城域の北側に位置する。





ごうろくじょう
郷六城