角田城 標柱  訪問年月日  2007年4月30日
 別称  −
 所在地  宮城県角田市角田字牛舘
 創築者  田手宗光
 主要城主  伊達氏
 築城年  永禄年間(1559〜70)
 廃城年  明治7年(1874)
 様式  平山城
 構成  本丸・二ノ丸
 遺構  郭・堀跡
 設置・復原物  標柱
 文化財指定  
 ■ 沿革
角田の地は中世以来、亘理郡の武石氏が支配していた。
だが永徳元年(弘和元・1381)に伊達氏8世宗遠と亘理武石行胤が争った結果、行胤は敗れ伊達氏がこの地を支配する事となる。それにより、永禄年間(1558〜70)頃に伊達氏の一族である田手宗光が角田に居館を構えて支配した。
それからまもなく宗光は相馬氏に奔り、角田は相馬氏と伊達氏の争乱の地となった。
伊達輝宗は天正4年(1576)、宗光の居城である角田城を攻め、天正12年(1584)に至り奪還に成功した。その間、宗光の子である宗時は父に従わず伊達氏に留まっていたので角田の地を相続したが、相馬氏との戦いにより天正10年(1582)に討死している。

−伊達成実・石川昭光の居城として−
天正19年(1591)になると伊達氏一門である伊達成実が角田に移封され、角田城に入城した。
しかし成実は政宗との確執により文禄4年(1595)に出奔したため、政宗は屋代景頼に命じて角田城を攻略させた。成実の家臣は籠城して抵抗したが角田城は落城、成実の家臣である羽田右馬助ら30余名が討死し、他は降伏している。

その後数年間角田城は城主不在が続いたが、慶長3年(1598)に石川昭光が8,000石で入部した。後に石川氏は加増と開拓によって2万1,380余石をもって伊達氏の御一門筆頭となった。
結果、角田城は後に角田要害と呼ばれ、明治維新まで石川氏の治世の下に存続した。

明治元年(1868)、角田城は南部藩領となり、翌2年(1869)には白石県に属した。さらに同年、白石県庁を白石城から角田城に移し、角田県と改称して明治7年(1874)に建造物が取壊された。


 ■ 構成
角田城は阿武隈川西岸に突出した丘陵の先端に位置し、南西の大沼・赤沼を天然の堀としていた。
本丸は最高所に位置し、東西に細長く「C」字形をしており、藩政時代には居館が存在していた。
二ノ丸は本丸の北側に位置して周囲に堀をめぐらせており、東側に大手門が存在し、外堀を設けていた。


 ■ 現況
現在本丸跡は角田高校、二ノ丸跡は角田中学校の敷地となっており、大沼・赤沼は干拓されて水田となっている。

■ 大手門跡
現在は宮城県角田高校の入口となっている。
■ 東側外堀跡
現在は用水路となっている。
■ 東側外堀跡
上記画像の北側。
■ 二ノ丸跡
現在は角田中学校敷地となっている。
■ 本丸切岸跡
角田城の石碑が建っている奥の丘陵が本丸跡である。
■ 本丸跡入口
大手門より西に登って行く。
■ 本丸跡
丘陵頂部。現在は角田高校の敷地となっている。
■ 本丸跡
■ 本丸跡
南端。見晴らしはかなり良い。





かくだじょう
角田城