■ 沿革
金山城は相馬氏の家臣である井戸川将監・藤橋紀伊守によって築城されたという。
伊具郡は古くから相馬氏と伊達氏の紛争地帯であったが、永禄9年(1566)に伊具郡が相馬領となると、金山城は井戸川将監が城主となり、後に佐藤為信および中村清忠が拠った。
天正4年(1576)に伊達晴宗・輝宗父子は小斎矢の目に陣を敷いて相馬氏を攻撃した。その後8年間の抗争の末に天正12年(1584)、伊具郡の諸城は伊達氏の手に帰する事となった。
−中島宗求の入城−
伊達政宗はこの戦いによって功のあった中島宗求に金山城と本郷・大内・伊手の3ヶ村2,000石を与えた。それにより宗求は天正16年(1588)、相馬氏に備え、本城や南の居館の各所に石垣・土塁・堀切などの防御施設を造って強固な構えを構築した。
その後も中島氏は所領変更に会わずに伊達一族としての格式をもってこの地を治め、金山城は藩政時代に伊達氏21要害の一つとして位置付けられて、仙台藩の南の境を守る重要な役割を担っていた。
中島氏は明治に至るまで治世が続いたが、明治維新を迎えた明治元年(1868)には南部藩領となり、翌2年(1869)には白石県(後に角田県)に属し、その後は破却され廃城となった。
■ 構成
金山城は阿武隈川南岸の独立した丘陵の北部を利用している。
本丸は丘陵の頂部に位置し、東西約27m×南北約60mのほぼ長方形状であり、南側三分の一程は1段(約1m)低い平場が石垣と土塀で区切られていた。
本丸の出入口は東辺と西辺に位置し、東側が大手口で幅2〜3mのつづら折にになった通路が続き、この入口周辺とその北側には石垣が組まれている。西側の門は搦手口で、この付近とその北側にも石垣が組まれていた。
本丸の周囲には一段下がって二ノ丸がめぐらされており、二ノ丸東部は土塀で囲まれた馬場が存在した。馬場のさらに東に下がった場所に平場が存在し、東西約33m×南北約22mで家中屋敷と呼ばれていた。この平場の南西部に石垣が残っているので、こちら側に門があったと推定される。二ノ丸の南東部には土塁による仕切が存在し、その南端に高さ約1.8mの石垣を組んで埋門と枡形を形成し、その外側には空掘が設けられ木橋が架けられていた。
■ 現況
現在、金山城跡は「お城山」として整備されている。
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■ 侍屋敷跡
大手口までの道左右に民家が建ち並んでいる。 |
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■ 入口
侍屋敷からの入口であり、大手口にあたる。 |
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■ 引地氏屋敷跡
引地氏は中島氏譜代の臣であり、ここ沢小屋の地に屋敷を構えていた。 |
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■ 米蔵跡
入口すぐに位置する。この奥には金山神社が祀られている。 |
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■ 三ノ丸大手埋門跡
幅2〜3m程の規模で枡形が設けられている。 |
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■ 出丸跡
本丸へ侵入する者を監視できる位置にある。 |
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■ 陸橋跡
出丸より本丸へ繋がる橋が設けられていた。 |
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■ 本丸外周
本丸の周りには一段低く郭が設けられていた。 |
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■ 本丸入口
大手口から直登出来るが、当時からあった出入口であるかは不明。 |
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■ 本丸土塁跡
南側は1m程度の段差で一段低くなっている。 |
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■ 本丸跡西側切岸
5〜6m程度の高さの切岸である。 |
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■ 本丸石垣跡
かなり大規模な石垣が現存している。
画像手前の石垣と奥の石垣は積み方が若干異なっている。 |
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