■ 沿革
川崎城は、古くより川崎地方を支配していた砂金氏が築いた城である。
砂金氏は戦国時代には伊達氏の家臣となっており、砂金右兵衛実常は大坂夏の陣に従った功により伊達氏の家格で一族に列せられた。
実常は慶長13年(1608)から同15年にかけて川崎城を築き、後には仙台藩の制度により「川崎要害」と称された。実常の跡は何代か養子が続き元禄15年(1702)、涌谷伊達氏からの養子であった重常が亡くなると砂金氏は断絶となった。
それにより黒川郡の宮床より伊達氏一門である伊達宗興が川崎に入り、20年間支配した。
享保7年(1722)、同じく伊達氏一門である伊達村詮が2000石で川崎に入ると、以後7代に渡り140年支配した。最後の邦賢は戊辰戦争の際に活躍したが敗戦を迎え、家禄を返上して川崎要害も廃された。
■ 構成
川崎城は標高201mの丘陵上にあり、本丸は頂部に位置し、城主やその家族が住む建物や政務を執り行う建物があった。入口は北側と南側2ヶ所の計3ヶ所存在し、南門の一つが正門、もう一つが脇門であった。北側は搦手門であったと思われる。
二ノ丸は本丸の東側に位置し、4〜6尺程度の土塁に囲まれ、土塁上には木柵が並べられており、家中屋敷などが置かれていた。
■ 現況
現在本丸跡は公園に、二ノ丸跡は川崎小学校となっている。
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■ 入口
北側からの入口である。現在は川崎小学校と公園の正面入口となっているが、
かつては搦手門であったと思われる。 |
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■ ロングスベリ台(公園地図より)
上記画像の右手に存在する。城の西側に設置されている。 |
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■ 本丸跡南側
こちらは南西側。上記画像の出入口よりかなり狭い。 |
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■ 二ノ丸跡
上記画像の裏、川崎小学校グラウンド。 |
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