きためじょう
北目城
北目城跡 説明板  訪問年月日  2005年7月16日
 別称  −
 所在地  宮城県仙台市太白区郡山
 創築者  −
 主要城主  粟野氏・伊達氏
 築城年  寛正年間(1460〜65)
 廃城年  −
 様式  平城
 構成  −
 遺構  土塁跡
 設置・復原物  説明板
 文化財指定  −
 ■ 沿革
広瀬川南岸に位置する平城で、「仙台領古城書上」によると粟野氏の居城であるとされる。

−粟野氏の居城として−
粟野氏の5代大膳亮忠重の時、寛正年間(1460〜65)に茂ヶ崎城より北目城に移り、天正年間(1573〜1591)まで居住したという。
粟野氏の9代大膳亮重国は名取郡三十三郷の旗頭となる豪勇の士であったが天正19年(1591)、伊達政宗と争って敗れ、政宗が岩出山へ入部の際には伊達氏の支配下に置かれていた。

−毘沙門天の加護−
政宗が北目城を攻略していた時の話である。
しばしば政宗は北目城を攻撃したが、城は一向に落ちなかった。
当時の城主、粟野大膳亮重国は毘沙門天を厚く信仰しており、その加護のせいだと考えた政宗は、
「もし北目城を落とせたなら、城下に毘沙門堂を建てて厚く奉じよう」と願をかけた。その甲斐あってか、ついに北目城は落ち、政宗の願いも叶った。

しかし政宗は、「毘沙門天のご利益は大したものである。もし自分の敵が同じように願をかければ自分も滅びるではないか」と約束を反故にし、毘沙門天を堀に投げ捨てた。それを憐れんだ町の人達が毘沙門天を拾って祀ったのが荒町の毘沙門天堂であるという。
これ以降、この毘沙門天は戦の願いに耳を貸さなくなったといわれる。

−伊達政宗の城−
慶長5年(1600年)、関ヶ原の合戦の折には、伊達家の対上杉氏の拠点とされた。
後に伊達氏家臣の屋代勘解由兵衛が差し置かれたという。

−北目氏とは−
「奥羽永慶軍記」には北目十郎の名が見え、人取橋の合戦の際に国分盛重が自分の代わりに白石氏と北目氏を出陣させている。この北目氏と粟野氏との関係は不明である。


 ■ 構成
名取郡一帯を支配していた粟野氏の居城であり、また政宗が中々落とせなかった様に、北目城は名取郡でも有数の規模であったと思われる。また位置的にも当時の奥羽街道にも近く、交通の要衝であった。
広さは東西370m×南北280mで、幅10〜14m・深さ3m以上・底は「障子」と呼ばれる障壁が設けられた複雑な構造の堀跡などが発掘されている。


 ■ 現況
現在は国道4号線と旧奥羽街道から広瀬川沿いに伸びる道路との交差点近くにあり、都市化され住宅地や商業地として今は見る影も無い。かろうじて説明板でここが北目城跡である事が分かる程度である。
■ 土塁跡か
現在は藪に覆われてほとんど遺構は確認できない。
奥に見えるBOOK・OFFあたりが国道4号線との交差点である。
■ 土塁跡か2
上記の画像とは反対の方向を見た所。こちらも藪ばかりである。
この先は旧奥羽街道である。