■ 沿革
小鶴城の創建時期は不明であるが、『小鶴村風土記』によると、逸見丹波守が城主であったとされる。
−留守氏の家臣・逸見氏−
逸見氏は、留守氏16代景宗が伊達氏から留守氏に入嗣した際にこれに従った家臣でる。以降逸見氏は留守氏の宿老として活躍した。
その後、留守氏18代政景の代に逸見遠江守が5貫900文の知行を受けており、さらに文禄の役(1592〜98)の際において逸見藤兵衛の名が見える。
しかし『留守氏家譜』によると、逸見内膳の代において逸見氏が没落したとあるが、いつの頃かは不明である。
ちなみに逸見氏は国分氏の家臣であったとする説も存在する。
−逸見氏以外の城主−
天正15年(1587)、国分氏の内紛の際に、留守政景が佐藤三郎に小鶴城を守らせた。
さらに天正年間(1573〜93)以降、柴田勝家の六男・弘邦が落延びてきて土着したとされる。
また、古老の言伝えによると、城主は吉田左近とも言われ、この地には現在も吉田姓が多い。
■ 構成
小鶴城の規模は、東西350m×南北150mの規模と推定されるが、『仙台領古城書上』には東西60軒×南北36間とされ、『小鶴村風土記』には竪(縦)38間×横27間との記録が残る。
主郭と思われる場所は頂部西端と思われ、比高11mの高さである。
その東側に二ノ郭・三ノ郭が位置していたとされる。
また、城を取巻く形で幅約5mの水堀が存在していた。
■ 現況
現在は主郭跡が一部削られ、他の郭も宅地化され遺構は殆ど残っていない。
北側の公園がかつての堀跡であり、一部切岸が残っており当時を偲ばせる。
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■ 南側入口
一部土塁が残る。
大手口含め、当時の出入口は不明であり、この道路も後世の改変であると思われる。 |
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■ 主郭
最頂部の西端に位置しかつては熊野神社が祀られていた。「殿上山」とも呼ばれる。
80m×40mの規模であり、西側は削られている。 |
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■ 二ノ郭
主郭東側に位置する。
現在は宅地化され、遺構は殆ど残っていない。 |
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■ 北側水堀跡
幅約5m程の規模であったとされるが、公園の大きさから見てもそれ以上の規模を感じる。 |
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■ 北側水堀跡
北側堀跡の西端である。
土塁に挟まれる形で遺構が残っている。 |
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■ 東側
こちらも公園となっているが、堀跡か郭跡かは不明。 |
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