■ 沿革
丸山城は伊達氏14世の稙宗の隠居城として築かれた。
天文17年(1548)、世に言う天文の乱により当主の座を退いた稙宗が隠居城として築城し、17年住んだ後に稙宗は永禄8年(1565)に没した。
−相馬氏と伊達氏の攻防−
その後、稙宗の遺言によって伊具郡5ヶ村は稙宗の娘が嫁いでいた相馬顕胤に所領を与えるという言質を盾に相馬氏が伊具郡に侵攻し、それを認めない伊達氏15世晴宗と相馬氏は大きな争いを繰り広げることになった。
結果的に元亀元年(1570)、丸山城は相馬氏の所領となり、相馬盛胤は門間大和を城主に据えた。
しかし天正4年(1576)に伊達晴宗・輝宗父子は小斎矢の目に陣を敷いて相馬氏を攻撃、8年間の抗争の末、天正12年(1584)に伊具郡諸城は伊達氏の手に帰する事となった。
それにより、丸山城には天正16年(1592)に黒木宗元を城主に置き、さらに天正17年(1593)に相馬領の駒ヶ峰城を落とすと、宗元を駒ヶ峰城に移し、丸山城は新たに高野壱岐兼高に与えられた。
さらに慶長6年(1601)には大条薩摩実頼が金津より移封されたが、その年のうちに麓の鳥屋館に移ったため、丸山城は廃城となった。
■ 構成
丸山城は阿武隈川南岸に存在し、南から延びる丘陵を利用している。
本丸は丘陵頂部の西端に位置し、東西40m×南北15mの面積で、南から西にかけて幅の狭い腰郭がめぐっており、その下は急峻な崖となっている。北側は平場となっており、その下に無数の段築が設けられている。
二ノ丸は本丸の東側に位置し、本丸とは幅10m、深さ5mの空掘で区切られており、土橋で繋がれている。面積は東西40m×南北30mで、本丸より若干狭い。二ノ丸のさらに東に空堀を隔てて三ノ丸が位置し、東西30m×南北30mである。
大手口は北側からの急な登道側であったと思われる。
■ 現況
現在は本丸跡に愛宕神社と伊達稙宗の墓所が存在する。
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■ 入口
国道113号線沿いに看板が設置されている。 |
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■ 三ノ丸跡
丘陵東端に位置する。現在は配水場となっている。 |
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■ 二ノ丸・三ノ丸へ
道路右側が郭跡、左側は崖となっている。 |
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■ 二ノ丸跡
三ノ丸西側に位置する。現在は果樹園となっている。 |
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■ 本丸跡土橋
二ノ丸との間に大規模な空堀が位置し、土橋で結ばれている。 |
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■ 本丸跡北端
愛宕神社が祀られている。背後には大手道入口が存在する。 |
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■ 大手道跡
山道となっている。奥に見えるのは本丸跡。 |
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