■ 沿革
茂ヶ崎城は粟野氏の居城である。
−粟野氏の活躍−
粟野藤三郎駿河守重直が康永元年(1342)、足利尊氏により名取郡に二千余貫を給わり、同2年(1343)に名取郡の茂ヶ崎城に居を構えたが、5代大膳亮忠重は寛正年間(1460〜65)に名取郡北目城に居を移した。
その後、6代国定は文明年間(1469〜1486)に石堂頼平に従って伊達成宗と争ったが、同14年(1482)伊達家に服属する。これより粟野氏は国分氏配下から伊達氏配下として臣従することになる。
9代重国も大膳亮を称し、名取郡三十三郷の旗頭となる豪勇の士であったが天正19年(1591)、伊達政宗に抗したため録を失い、北目城にて没した。
−伊達氏の菩提寺へ−
その後、伊達氏4代藩主綱村が元禄8年(1695)にこの地に大年寺(黄檗宗)を開山させた。
代々伊達氏は臨済宗であったが綱村は黄檗宗に深く帰依したため、以後の藩主の菩提寺となった。しかし明治維新後、伊達氏は神葬祭となったためその保護を失い、衰退した。
■ 構成
大年寺山に位置する。
■ 現況
現在、東北工業大学二ツ沢キャンパス及び仙台放送の敷地となっている。
一部、空堀跡らしき遺構が残る。
また大年寺跡にも土塁や堀切のようなものが確認されるが、茂ヶ崎城のものか大年寺の遺構か判別できない。もしかしたら大年寺跡は茂ヶ崎城の二ノ郭であった可能性もある。
大年寺として現在残るのは長い石段と惣門のみである。
また、伊達氏の菩提寺として伊達綱村以降の数代の藩主の墓がある。
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■ 頂部公園
現在は一部公園となっており、伊達藩藩主の墓所は非公開となっている。
ここまで開発されるともはや遺構は不明。 |
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■ 石段
かなり長い石段を上から見たところ。
奥に惣門が見える。 |
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■ 土塁跡か
画像ではわかりづらいが、石段頂部脇に数十cm位の高さの土塁が続いている。
これが茂ヶ崎城のものか、大年寺のものか、はたまた現代のものかは判別がつかない。 |
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■ 堀切か
これも上記土塁と同じく何時のものか不明。ただのケモノ道かも。 |
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■ 大年寺惣門
大年寺山の東側麓に位置する。
五つの切妻屋根を有し、外観的には高麗門の形式を左右に複雑にしたもので、建築年代は享保元年(1716)と推測される。
前面には皷山道霑筆の「東桑法窟」の額を掲げ、昭和60年に仙台市指定文化財とされている。 |
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■ 野草園へ
標柱が建っている場所から野草園方面へ抜ける道。
この画像左側には以前公衆トイレがあったが数年前、バラバラ殺人の遺体が見つかった。
現在は跡形も無くなっている。 |
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■ 郭跡か
北西端に位置する。
現在は「ロータリの丘」と名づけられ、広場として整備されている。 |
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■ 空堀跡
長さ約60m、幅約5m、深さ約2.5m〜5mの規模である。 |
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