■ 沿革
名生城は奥州探題大崎氏の居城であったとされる城の一つである。
大崎地方はかつては「河内」と呼ばれ、鎌倉時代には源頼朝による平泉征伐で功のあった渋谷・大椽・泉田・四方田らが河内四頭と呼ばれ支配していた。しかし建武年間(1334〜37)、河内四頭は関東管領の意に従わないとして領地を没収された。
替わりにこの地方は足利氏の一族である斯波家氏に与えられ、家氏は斯波郡の高水寺城に居を構えて斯波氏を称した。さらに家氏の孫である家兼は大崎氏を称し、奥州探題に任じられて貞和2年(正平元・1346)に伊達郡霊山へ移った。家兼はさらにその3年後には志田郡師山へ移り、観応2年(正平6・1351)、伏見の地に名生城を築いた。
−奥州探題 大崎氏−
大崎氏は代々左京太夫、もしくは左衛門督を任官して大崎5郡(玉造・加美・志田・遠田・栗原)や黒川郡に勢力を伸ばした。しかし時代が下ると内紛などにより次第に勢力を失い、天正18年(1590)、13代義隆は豊臣秀吉の小田原征伐に参陣しなかったため所領を没収され、大崎氏は滅亡した。
大崎氏に替わって大崎地方は木村吉清に与えられた。しかし天正19年(1591)、葛西・大崎一揆が起き、名生城は一揆勢の拠点となったが、秀吉の命を受けた蒲生氏郷によって一揆は鎮圧され、名生城も落城した。その際氏郷は一時、伊達政宗を警戒して名生城に入城している。
完全に一揆が鎮圧された後、大崎地方は政宗に与えられ、政宗に岩出山城を引き渡すために改修に訪れた徳川家康が名生城に立ち寄っている。その後、史料に現れなくなった事から廃城になったものと思われる。
■ 構成
名生城は大館・内館・小館・北館・二ノ構・三ノ構・軍議評定丸の7郭より構成されている。
大館が本丸跡とされ、中央部に位置している。昭和55年(1980)の発掘調査では幅約9m、深さ約3.5m程のV字型の溝が発見されており、大館はこのような溝で区分されていた事も考えられる。
小館は大館の南側に位置し、大崎神社周辺が中心部とされる。
大館と小館の南西部には軍議評定丸が位置し、大館の北には内館・北館と続き、大館の西側には二ノ構、さらにその西に三ノ構が位置している。
■ 現況
現在城の大部分は水田や宅地となっている。
また、同地は国指定史跡である「名生館官衙遺跡」が存在している。
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■ 軍議評定丸跡
大館南側に位置する。
ここで軍議が行われていたのであろうか。 |
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■ 二ノ講跡
三ノ講跡と同じく大館の外側である西側に位置する。 |
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■ 大館跡
名生城の中心部である。
また、7世紀末から10世紀にかけて大崎地方を治めていた名生館官衙も同地である。 |
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■ 軍議評定丸土塁跡跡
大館南側に隣接する土塁跡である。
現存の土塁の中では規模が最も大きい。 |
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■ 北館跡
内館よりさらに北側に位置する。
現在は浄泉院の敷地となっている。 |
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