中新田城 標柱  訪問年月日  2006年11月3日
 別称  御仮屋
 所在地  宮城県加美郡加美町北町
 創築者  大崎家兼
 主要城主  大崎氏・伊達氏
 築城年  文和3年(正平9・1354)
 廃城年  ?
 様式  平城
 構成  本丸・二ノ丸・二ノ講・三ノ講・乾ノ丸
 遺構  土塁・掘
 設置・復原物  標柱・説明板
 文化財指定  町指定史跡
 ■ 沿革
中新田城は奥州探題大崎氏の居城であったとされる城の一つである。
足利氏の一族である斯波家兼が奥州管領に任じられ、奥州に下向して文和3年(正平9・1354)に中新田城を築いたとされる。
その後、大崎氏12代義直と13代義隆が居城としたが、義隆の時に名生城に移った。それ以降、中新田城には大崎氏の家臣である南条下総守隆信が城代として入った。

−中新田合戦−
天正16年(1588)1月、大崎氏の内紛に乗じて伊達政宗は大崎領に侵攻した。
大崎氏はこれに正面から抵抗する力は無く、中新田城に籠城する。2月になると伊達勢は中新田城を包囲したが、城の周囲の湿地に足を阻まれ、尚且つ大雪によって撤退を余儀なくされた。これを好機と見た南条隆信は追撃を指示、中新田城内の大崎勢は城から討って出て伊達勢は窮地に陥る事となった。
さらに追打ちをかけるように、これまで伊達氏に属していた大崎氏の一族黒川晴氏が伊達氏から離反し、桑折城にて伊達勢を打破った。その際、敗走する伊達勢の大将の一人であり、晴氏の女婿であった留守政景は晴氏によって見逃されている。

結果、大崎氏は伊達氏と和議を結び、最終的には伊達氏に屈する事となった。
しかし、その後の天正18年(1590)、13代義隆は豊臣秀吉の小田原征伐に参陣しなかったため所領を没収され、大崎氏は滅亡した。

寛永15年(1638)、仙台藩主2代忠宗がこの地を訪れた際に御仮屋が設けられたという。


 ■ 構成
中新田城は一辺100m程度の方形状の本丸を中心に、外周を東西300m×南北250mの二ノ丸が取り囲んでいた。さらに二ノ丸の東側には二ノ講・三ノ講と続き、本丸の西側には乾ノ丸が存在し、本丸の外堀に架けた橋によって連結していた。
それぞれの郭は土塁と堀で囲まれており、推測される堀の幅は20〜25mと大規模なものであった。


 ■ 現況
現在城跡は殆ど市街地化されている。
本丸跡には多川稲荷神社が祀られており、二ノ丸跡には長興寺・瑞雲寺・神明社など寺社の敷地となっている。
■ 八幡神社周辺
中新田城の石碑が設置され、初代城主である斯波家兼公像が立つ。
かつての本丸跡でもある。
■ 本丸跡
国道457号線が本丸跡中心部を縦断している。
■ 多川稲荷神社
本丸南東隅に祀られており、社の裏には土塁が残る。
■ 本丸跡南西隅
堀跡が畑となっており、角地であることを感じさせる。
■ 本丸南側堀跡
上記画像に続く堀跡。
■ 二ノ丸跡南側
道路左側が堀跡。
■ 二ノ丸西側堀跡
水路が残っているが、現在の道路自体も堀の部分であった。
■ 二ノ丸跡北西端
現在は神明社が祀られている。
■ 二ノ丸北側堀跡
こちらも道路自体が堀であった。





なかにいだじょう
中新田城