■ 沿革
利府城はかつて村岡城と呼ばれ、留守氏の有力な一族である村岡氏の居城であった。
留守氏は文治年間(1185〜90)に陸奥国留守職に任じられた名門であるが、戦国末期には伊達氏に服属してその勢力を保っていた。
−伊達氏からの入嗣問題−
留守氏は14郡宗・16代景宗・17代政景と伊達氏から入嗣が行われていたが、特に17代政景の際に大きな反発を受けた。その主な者は村岡兵衛・余目伊勢・佐藤六郎佐衛門らであったが、村岡兵衛が最も頑強に抵抗した。
鶴館城主である黒川氏が調停に立ったが徒労に終わり、永禄12年(1569)暮には結局村岡氏は挙兵して村岡城に立て籠もった。政景は圧倒的物量を頼みに村岡城に猛攻をかけ、結果翌年の元亀元年(1570)に落城、村岡氏は滅亡した。
その後政景は村岡城を修築し利府城と改め、元亀年間(1570〜73)に居城を岩切城から利府城に移した。しかし天正18年(1590)、奥羽仕置によって留守氏は所領を没収され、利府城は廃城となった。
■ 構成
利府城は仙台平野北東端の丘陵に位置し、南西方面へ1kmの長さに及び、幅は100〜250m程である。
城内は丘陵を切り込む沢によって5つに分断されている。標高は北東部から104m・88m・69m・32m・36mと順に低くなっている。
その内、北東より3つの区画が整然としており、残り2つの郭は低地に位置している。北東の3つの郭の中央部が主郭と思われる。主郭は50×40m程の広さであり、その周囲には一段低い平場が巡っている。
■ 現況
現在、北東の3つの郭の内、中央と南西の郭が館山公園として整備されている。
南西2つの郭は住宅地となっている。
|
■ 南側入口
県道8号線側から利府小学校脇を抜ける登道。 |
|
■ 南西郭跡入口
北東3つの郭の内の南西側の郭である。全体的には中央の郭になるか。
腰郭のような段差が見受けられる。 |
|
■ 南西郭跡
平場としては城内で最も広いが、公園化された部分も大きいと思われる。 |
|
|
■ 北側入口
北側から南西郭に通じる出入口。木々が生い茂っている。 |
|
■ 主郭入口
北東3つの郭のうち中央部の郭である。この画像は南西側からの入口である。 |
|
■ 主郭下段
主郭は二段になっており、こちらは下の段である。 |
|
■ 主郭段差
当初、下の段は腰郭かと思ったが高低さが1m程度なので同じ郭と思われる。 |
|
|
|