佐沼城 遠望  訪問年月日  2006年11月3日
 別称  鹿ヶ城
 所在地  宮城県登米市迫町佐沼字内町
 創築者  照井太郎高直か
 主要城主  葛西・大崎・石川・木村・津田・亘理各氏
 築城年  文治年間(1185〜90)か
 廃城年  −
 様式  平山城
 構成  本丸・二ノ丸
 遺構  郭・土塁・堀
 設置・復原物  復原絵図
 文化財指定  −
 ■ 沿革
佐沼城は、かつて城の鎮護を願って鹿を生き埋めしたことから「鹿ヶ城」とも呼ばれる。
創建に関しては、文治年間(1185〜90)に藤原秀衡の家臣である照井太郎高直が居城としていたと伝わるが、照井太郎の伝承は周辺各地に伝わっているため定かではない。南北朝時代には、北畠顕家が戦死した暦応元年(延元3・1338)頃、葛西氏が寺池城と共に佐沼城を拠点にしたものと思われる。

−葛西氏と大崎氏の狭間−
室町時代の半ば頃になると佐沼城は大崎氏によって支配され、天文年間(1532〜55)には大崎氏の家臣である石川氏の居城となっていた。しかし永禄年間(1558〜69)の頃には再び葛西氏の支配下に置かれており、史料によって記述は異なるが、葛西・大崎の両氏によって出入が激しかったと推察される。
天正18年(1590)、豊臣秀吉の奥羽仕置によって葛西氏・大崎氏はその所領を没収され、両氏の旧領には木村伊勢守吉清が置かれた。
しかし葛西氏17代晴信はこの仕置に対し抵抗し、検地のために下向して来た木村吉清・蒲生氏郷らの軍勢に対し戦いを仕向けた。葛西勢は和淵・高清水・寺池などの各地において戦火を交えたが敢え無く敗れ、晴信は佐沼城で自害して果てた。(しかし史料によっては晴信はこの後も生存していたとする説もある)

−伊達氏の支配下へ−
その後、あらためて葛西・大崎氏らの旧領を支配した木村吉清であるが、これに反する葛西・大崎氏の旧臣らは天正18年(1590)10月に蜂起した。この一揆は気仙・岩手沢を皮切に次第に領内に拡がり、これを抑え切れなかった結果、木村吉清父子は佐沼城に籠城することになった。
一揆の拡大に対し、浅野長政は蒲生氏郷・伊達政宗らに一揆鎮圧を命じた。政宗は12月24日、佐沼城に出陣し、一揆勢を蹴散らして木村父子を救出した。この功によって政宗は米沢の替わりに葛西・大崎氏の旧領を与えられた。翌天文19年(1591)6月、政宗は再び拡がっていた一揆勢の鎮圧に乗り出し、未だ一揆勢が普請していた佐沼城を再び攻略、徹底的な掃討の結果、7月には佐沼城は落城した。

−仙台藩の要害として−
伊達氏支配下となった佐沼城には湯目民部景康が配された。湯目氏は後に津田氏と改姓し、7代丹波定康までこの地を支配したが、宝暦6年(1756)、7代藩主伊達重村の不興を被って所領没収・改易の処分を受けた。
津田氏改易後は栗原郡高清水より亘理伯耆倫篤が移され、以後亘理氏の居城、また仙台藩の要害の一つとして明治維新まで存在した。


 ■ 構成
佐沼城は宮城県東北部に広がる迫川低地のほぼ中央に位置する丘陵に位置し、標高は15m、比高は8m程である。
城の北側と東側は迫川が流れ、西側は湿地によって画され、北西側は西から伸びる丘陵と深い沢によって切り離されており、わずかに南側のみが地続きとなっている天然の要害である。
丘陵頂部には本丸跡が位置し、標高15〜6m、東西100m×南北80mの不整方形で、外周を高さ1mの土塁が巡っている。本丸の外周には幅10m程度の堀が設けられ、二ノ丸と区分されている。大手門は西側に位置し、裏門は東側にあった。
二ノ丸は本丸より5〜6m程低く、本丸の西・南・北側の外周に位置している。南側の一部には僅かに土塁が残っており、二ノ丸の外周も土塁が巡らされていたと思われる。また、絵図によると二ノ丸の外周も水堀が巡らされていたようである。南側には大門が位置し、中門を経由して本丸大手に至っていた。


 ■ 現況
現在は本丸・二ノ丸の一部が鹿ヶ城公園として整備されている。

■ 県道36号線
城の南側を通っている。
かつての大門付近であったと思われる。
■ 二ノ丸跡東端
段差が明瞭に残っている。
■ 中門跡付近
南方に位置する大門よりの登城口に当たる。
現在は駐車場となっている。
■ 本丸跡南側切岸
高さは約8m程度である。
■ 本丸跡南側入口
恐らく後世のものと思われる。
■ 本丸南西側堀跡
本丸外周には西側より北東にかけて堀跡が残っている。
■ 本丸北東側堀跡
幅約10m程度の堀跡であったとされるが、現在は3〜4m程となっている。
■ 本丸北側堀跡
コンクリートで覆われてしまっているのが残念。
■ 本丸大手門跡
本丸の西側に位置する。
■ 本丸跡
東西100m×南北80mの規模である。
■ 本丸跡南側
所々に凹凸が見られる。
■ 本丸跡南東部
東屋のある部分に多少の土盛の跡が見られる。櫓跡であろうか。
■ 本丸裏門跡
本丸の東側に位置する。
■ 出雲神社照日権現
本丸東側の一部に高台が存在する。
現在は出雲神社照日権現が祀られている。
■ 板碑
弘安年間(1278〜87)に建てられた供養塔であった伝えられる。
梵字で阿弥陀如来が刻まれている。
■ 本丸跡北側土塁
本丸北側の縁に沿って土塁が設けられている。
■ 本丸跡北側切岸
土塁の外側は切岸となっている。
■ 本丸より下を望む
さらに下には堀跡が。
■ 本丸跡北東側入口
権現の裏手に通じている。
■ 本丸北側堀跡
■ 本丸北東側堀跡
北側や西側に比べると若干深さが浅くなっている。
■ 警武士門跡
本丸の北東側に位置する。
■ 迫川
城の東側を流れる。
■ 池
かつての鯛沼跡と思われる。
■ 旧亘理邸遠望
■ 旧亘理邸
亘理9代隆胤が佐沼城から移り住み「古鹿山房」と称して広く文筆活動を行ったとされる。
■ 地図





さぬまじょう
佐沼城