せんだいじょう
仙台城
仙台城 大手門隅櫓  訪問年月日  2003年7月19日 / 2005年11月3日
 別称  虚空蔵城・千躰城・千代城・青葉城
 所在地  宮城県仙台市青葉区青葉山・川内
 創築者  伊達政宗
 主要城主  島津氏・国分氏・伊達氏
 築城年  慶長7年(1602)
 廃城年  明治4〜5年(1871〜72)
 様式  平山城
 構成  本丸・二ノ丸・三ノ丸
 遺構  石垣・土塁・堀
 設置・復原物  大手門隅櫓・詰ノ門石垣
 文化財指定  国指定史跡
 ■ 沿革
仙台城は伊達氏62万5千石の居城である。
城が築かれた青葉山にはかつて大満寺・長泉寺・龍泉寺・光禅寺・玄光庵の五つの寺があり、大満寺の虚空蔵堂が主塔であったので、ここにある城は虚空蔵城(虚空蔵館)と呼ばれていた。

−島津氏・国分氏の居城−
鎌倉時代、青葉山には島津氏の居城があったとされるが、詳細は不明である。
文治5年(1189)、源頼朝の奥州合戦において功のあった千葉胤通が国分荘の地頭に任じられ、国分氏を名乗った。当初、胤通は郷六館を居館にしたが、やがて虚空蔵城に移ったとされる。後に国分能登守が城主となった時、城辺に千躰仏が祀られていたため「千躰城」と改称した。だが後世、政宗が居城を移そうとした時代には「千代城」へ変化していたという。
その後、国分氏には天正5年(1577)、伊達政宗の叔父である盛重が入嗣しているが、盛重は慶長元年(1596)に出奔しており、この時より千躰城は空城となっている。

−仙台城の築城−
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いで徳川方に与した伊達政宗は刈田郡を加増された。
それによって従来の居城である岩出山城は手狭であり、領域が北西に偏りすぎ、なおかつ主要街道から外れた位置にあるため、新たに居城を築く必要性が出てきた。その際に候補地として千代城がある青葉山、宮城野榴ヶ岡、茂ヶ崎、石巻日和山の4ヶ所を選び、幕府に申請した。その結果、慶長5年(1600)11月に徳川家康によって千代が認可された。
幕府から許可が下りると、政宗は「仙台初見五城楼」という唐詩にちなんで「千代」という地名を「仙台」と改め、早速翌月の12月24日に縄張の普請が開始された。翌・慶長6年(1601)4月、政宗は早くも北目城より工事中の仙台城に移っているが、その秋には江戸へ上洛している。

慶長7年(1602)5月には本丸が完成し、翌慶長8年(1603)8月、政宗は江戸から帰り仙台城に入城した。着工から2年半という短期間で完成したのは、天険の要害を利用し、人工的な防御物に頼る事が少なかったため工事が少なく済んだからであろう。
それから僅か13年後、元和2年(1616)7月28日の大地震の際には櫓・城壁などが崩壊したが、これはまもなく修理されたものと思われる。

−戦国的山城から近世的平山城へ−
2代目忠宗の代には戦国の世も終わりを告げ、城の持つ軍事的な性格も薄れて、より居住性に優れて且つ行政的な便利さが求められる様になっていた。
そのため仙台城の本丸は不便であったため、本丸の北側・大手門すぐ西に二ノ丸を造成、寛永16年(1639)に完成し、忠宗は本丸より二ノ丸に移り住んだ。それによって本丸の意義は薄れ、大広間はわずかに儀式などが執り行われる際に利用されるに留まる様になった。

三ノ丸は大手門の外側東南に位置する一画であり、構築は二ノ丸と同時であったといわれるが政宗時代という説もある。

−度重なる災害−
仙台城が最も完備した状態にあったのは二ノ丸完成時の寛永16年(1639)から正保3年(1646)4月の大地震までのわずか7年間のみであった。大地震では本丸の各三層櫓が全て崩壊したが、再建されることは無かった。その後さらに寛文8年(1668年)7月の大地震ではさらに甚大な被害を与え、本丸の周囲を囲む白壁の土塀は全て木柵に変わった。

延宝8年(1680)から天和2年(1682)にかけて本丸内の西南部に西ノ丸・腰郭が新たに設けられ、その西側には御城番所が置かれた。元禄以降しばらくの間大きな変化は無かったが、文化元年(1804)6月、二ノ丸・中奥の建物が雷火で全焼し、これは翌2年3月から6年4月までかかって再建された。また天保6年(1835)の地震でも石垣が崩れた。
これ以降は明治に至るまで大きな変化は無い。以上のように仙台城は度々の大地震や火災の被害によって建造物の変化はかなりあったが、外郭としてのの変化はほとんど無かった。

−明治新政府下において−
戊辰戦争においては伊達氏は奥羽列藩同盟の盟主として官軍に抵抗して敗れたため28万石に厳封され、廃藩置県後は仙台城は兵部省が管轄し、二ノ丸には東北鎮台が置かれた。
本丸の建物はまったく無用のものとされ、明治4〜5年(1871〜72)頃に全て取り壊され、二ノ丸の建造物も明治15年9月の火災で全焼した。唯一残った大手門とその隅櫓も国宝に指定されていたが第二次世界大戦の仙台空襲により炎上し全焼した。


 ■ 構成
大きく分けて本丸・二ノ丸・三ノ丸に分れている。
仙台城は天守の無い城といわれるが、本来は五層の天守を建設する構想があった。実際本丸には「天守台」と呼ばれる場所が存在する。しかし政宗は外様大名であった為、幕府に遠慮して天守を設けなかったといわれる。

その代わり本丸には桃山式書院造の大広間が築かれ、絢爛たる装飾により重大な儀式や貴賓の接待の間として使われた。また本丸北には詰の門として出入口が設けられ、その左右には西脇櫓・東脇櫓として三層の櫓が設けられ、東北隅の艮櫓、東南隅の巽櫓といずれも三層の櫓が全部で4基築かれた。さらに東側の断崖には懸造(かけづくり)と呼ばれる書院風造の座敷を建築した。

大手門は仙台城の正面入口であり、正面には二層の隅櫓が設置され、正面10間(19.7m)の二階建の入母屋造りで瓦葺きの壮大なものであった。この大手門は豊臣秀吉が築いた肥前名護屋城の大手門を政宗が拝領して移築したものと伝えられる。普段は堅く閉じられており、藩主または家族の通行と城内での儀式が執り行われる以外は一般家臣の登城は扇坂より行われた。造営時期に関しては慶長年間(1596〜1614)の本丸造営期と寛永年間(1624〜1643)とする説がある。


 ■ 現況
現在本丸跡は護国神社が祀られ、伊達政宗の騎馬像が設置され観光の名所となっており、仙台市中心部を一望できる。遺構はほとんど残っておらず、僅かに詰の門の石垣が残っている。また、本丸北面の石垣は近年崩壊の危険性があったため、平成16年3月に補強工事が完了した。
大手門は焼失したが隅櫓が昭和42年に再建されている。
二ノ丸跡は現在東北大学の川内キャンパスの構内となっており、三ノ丸跡は仙台市博物館として利用され、現在は土塁の一部が残っている。

■ 大手門隅櫓
大手門は国宝に指定されていたが昭和20年の仙台空襲の際焼失し、隅櫓のみが昭和42年に再建された。
■ 大手門跡
現在は市道が通っているが、これを遮る形で大手門が存在した。
■ 寅ノ門跡
工事中は中ノ門跡である。
■ 中ノ門跡
大手門跡の次に位置する門である。
枡形状となっている。
■ 沢ノ門跡
三ノ丸と本丸の間に沢ノ曲輪、その西側に中ノ曲輪があり、その2つの曲輪を連絡する部分に
平家建ての沢ノ門が設置されていた。
■ 艮櫓跡石垣
この石垣の上にが設置されていた。天守閣を持たなかった仙台城の中では最も高さと威容を誇った建造物であっただろう。現在の石垣は2004年3月に補強され積み直された物だが、その際それまで地表に露出していた第V期の物である切石の石垣の内部に第T期の野面積から第U期の補修の際の石垣が発見され、都合3期にわたっての変遷が確認された。
■ 本丸石垣
この先に本丸詰ノ門があった。
■ 詰ノ門跡東脇櫓跡
詰ノ門の向かって左側の3層櫓がこの石垣の上に建っていた。
■ 詰ノ門跡
本丸の正面入口であった。2階建ての瓦葺でほぼ大手門と同じ幅であったという。右側の石垣には3層の西脇櫓が建っていたと思われる。
現在は護国神社の鳥居が建っている。
■ 詰ノ門から奥に向けて
八木山方面にむけて道が続いており、かつては1日15,000台の車両が通行していたが、現在は一方通行である。奥の石垣は野面積のようで古い物である観が漂う。
■ 酉ノ門跡
詰ノ門西側の出入口である。
■ 酉ノ門跡西側石垣
■ 東脇櫓跡
ここに東脇櫓が建てられていた。
■ 伊達政宗公 騎馬像
かつては艮櫓が建てられていた場所である。
艮櫓石垣修復完了に際し、伊達政宗公騎馬像が見晴らしの良いこちらに移動された。
■ 伊達政宗公 騎馬像
初代伊達政宗公騎馬像は小室達(こむろとおる)によって昭和10年に完成したが、太平洋戦争の最中金属供出によって失われてしまった。そこで戦後に柳原義達によって平服で直立姿の政宗公像が再建されたが市民には不評であった。その後初代の騎馬像の鋳型が発見され、昭和39年に再建され現在に至る。
平服姿の政宗公像は現在岩出山城に設置されている。ちなみに初代の騎馬像は上半身のみが見つかり現在三ノ丸跡の仙台市博物館に設置されている。
■ 本丸より市内を望む
画像中央部のビルが住友生命仙台中央ビル(通称SS30)。
右手の断崖は広瀬川に面しており、その向こうは伊達政宗公墓所の瑞鳳殿である。
■ 宮城県護国神社
本丸跡に鎮座する。
■ 天守台跡
この奥に天守台跡が位置する。
仙台城にはかつて五層の天守を築く構想があったとされ、その天守台跡という。
■ 巽櫓跡
本丸南東ぶに位置し、三層の櫓が建てられていた。現在は石垣と礎石の一部を残すのみである。
■ 埋門跡
本丸の南側の出入口にあたり、この門は西口を向いているため桝形が設けられている。
正保の城絵図には平家建・瓦葺の門が建てられていた。
ここを出ると断崖絶壁の竜の口渓谷がある。
■ 二ノ丸御殿跡
大手門を抜けると真正面に位置しており、2代忠宗の代に造成され、主な公務はここで行われた。
現在は東北大学川内キャンパスとなっている。
■ 二ノ丸御用所・勘定所跡
画像左側には二ノ丸詰ノ門が存在し、画像右側には御用所・勘定所が存在していた。
この建物は東北大学川内記念講堂。
■ 扇坂跡
大手門は藩主の出入と城中の式日以外は開かず、一般の登城口はこの扇坂を利用した。
これより西へ千貫沢に沿い台所門に至る。扇坂の由来は、通路入口の坂が扇状に展開していたためという。
■ 三ノ丸東側土塁跡
三ノ丸跡には現在は仙台市立博物館が建っている。
かつて三ノ丸は土塁と水堀で堅固に囲まれていたという。これは往時を偲ばせる土塁跡。
■ 三ノ丸子ノ門跡
三ノ丸の北側の出入口の門跡である。
現在は仙台市立博物館への出入口となっている。
門跡の左右に石垣が組まれており往時を偲ばせるがこの石垣は昭和に入り修復されている。
■ 三ノ丸巽門跡
三ノ丸の南東側の出入口であり、大手門や隅櫓と共に戦災まで現存していた数少ない建造物の一つであった。
昭和59年の発掘調査で14基の礎石や雨溝落などが確認された。
現在は仙台市立博物館裏側から天守台方面に抜ける裏道となっている。
■ 三ノ丸水堀跡
三ノ丸の外側である東に設けられた水堀跡。
■ 清水門跡
三ノ丸と沢ノ門跡の境目にあたる門跡で、正保年間(1644〜1647)の城絵図では入母屋造屋根で二階建の楼門となっているが創建年代や変遷は不明。
清水門の名の由来は藩御用酒造りに利用された清水が右脇にあることからという。
■ 仙台大橋
仙台城大手門と、城の東側に位置していた城下町とを結ぶために慶長6年(1601)に架けられた仙台橋が基になっているとされる。現在の橋は昭和13年に架けられたコンクリート製である。
■ 遠望
東側より望む。