■ 沿革
東光寺城の創建時期は不明であるが、『仙台領古城書上』によると、伊沢四郎家景の一族である余目氏が城主であったとされる。
余目氏は、留守氏4代恒家の弟である家政を始祖としている。以後、余目氏は留守氏の重臣として活躍し、江戸時代に入り留守氏が水沢へ移った際もこれに従った。
−余目氏の記録−
記録によると、弘安3年(1280)に留守氏5代家信の三男・家尚は宮城郡内に領土を与えられ、「岩切余目館」に入ったとされる。また、留守政景が伊達氏から留守氏へ入嗣する直前、当時の留守氏当主であった顕宗が家臣である村岡氏の反乱に遭い、高森城を逃れて「余部次郎左衛門居城岩切」に移ったとの記録もある。
これらの記録は江戸時代に入ってからの物であるが、この余目(余部)氏の城館が東光寺城であった可能性がある。
−東光寺として−
東光寺は天文9年(1540)、長禄寺の僧・普岳文総が曹洞宗として創建したとされる。
もしかしたら、この東光寺と余目氏の城館とが並存していた時期があったかもしれない。
■ 構成
七北田川の北岸の丘陵一帯に位置する。
東光寺裏の北西側に東西80m×南北20mの細長い郭が存在し、ここが主郭であったと思われる。
この東端には土塁と二重の空堀が設けられ、郭が位置していた。
また、主郭の西側には数段の小さな郭が位置しており、岩切から松森に至る街道を押さえる役割を果たしていたと思われる。
■ 現況
現在、主郭跡は東光寺の墓地となっており、改変が著しい。
一部土塁・空堀が残っている。
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■ 東光寺城遠望
七北田川に架かる今市橋よりの遠望。 |
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■ 東光寺境内
境内の西側から北側にかけて覆うように丘陵が位置し、城域となっている。 |
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■ 石窟群
鎌倉時代から室町時代にかけて造られたとみられる4基以上の石窟が確認されている。 |
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■ 石窟
穴薬師と呼ばれる薬師如来や、阿弥陀如来などの石仏が刻まれている。 |
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