■ 沿革
若林城は伊達政宗の隠居所として建築された。
この地はかつて戦国時代に国分氏の城があったとされ、政宗が慶長年間(1596〜1615)に居を構えたことがある北目城からほど近く、仙台城からも4.5kmと程近い位置にある。
政宗は寛永4年(1627)2月に幕府に許可を取り、同5年(1628)11月には普請がなったばかりの若林城に入った。若林城の周囲には家臣の屋敷や町屋敷も置かれ、一個の城下町の観があったという。
−たった9年間の城−
寛永13年(1636)、70歳を迎えた政宗は健康にすぐれず、仙台から江戸に発つ際、
「5月の梅雨の時期になったら城の西南に杉を植えること」
「屋敷はもとのように耕地にしてよいが掘一重だけは残すこと」など申し付けている。
その後政宗は若林を発った1ヶ月後の5月24日、江戸藩邸で生涯を終えた。
それによって若林城は廃城となったが、建造物は寛永16年(1639)、忠宗によって構築中の仙台城二ノ丸に移築され、跡地は薬園などに利用された。
それから243年後の明治12年(1879)、この地には宮城集治監が建てられ、旧来の土塁の上にレンガ塀がめぐらされた。
■ 構成
東西400m×南北350mの長方形に近い平面形で、大規模な土塁がめぐっていた。
北西・北東・南西・南の4ヵ所に張り出しがあり、北側・東側・西側に出入口が設けられて共に枡形となっている。大手は西側であり、現在の刑務所の出入口と一致する。
東南角には櫓が築かれたといい、郭内には建物が配置されたがその詳細は不明である。また、外周には幅20間の水堀がめぐらされた。現在の宮城刑務所である。
■ 現況
現在は宮城刑務所の敷地となっており、中を窺い知ることはできない。
内部には伊達政宗が朝鮮から持ち帰ったとされている「伏竜梅」があり、国の天然記念物に指定されている。
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■ 大手門跡
現在の宮城刑務所の出入口に位置する。
標柱と説明板が設置されている。 |
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■ 宮城刑務所
大手門跡から奥を覗いたところ。
ここから先は関係者以外入ることはできない。 |
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■ 南側
右側の林が城跡。左側には住宅地が。
その間の平地が恐らく水堀であったのだろう。 |
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■ 東側
茂みの向こうに刑務所の赤レンガ塀が見える。
この茂みも水堀跡か。 |
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■ 西側
用水路が流れている所がかつてここが水堀であったことを連想させる。 |
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