涌谷城 太鼓堂  訪問年月日  2006年11月3日
 別称  涌谷要害
 所在地  宮城県遠田郡涌谷町涌谷字下町
 創築者  涌谷美濃守もしくは涌谷直信か
 主要城主  涌谷氏・涌谷伊達氏(亘理氏)
 築城年  永享3年(1431)か
 廃城年  明治元年(1868)
 様式  平山城
 構成  本丸・二ノ丸
 遺構  太鼓堂・郭・石垣・空堀
 設置・復原物  模擬天守・説明板
 文化財指定  −
 ■ 沿革
涌谷の地は、かつて室町時代から戦国時代にかけて大崎氏の支配下にあり、大崎平野の東端に位置しているため葛西領と隣接する要衝の地であった。

−涌谷氏の出自−
大崎氏初代家兼の三男である彦五郎は、百々城を居城として百々信濃守を名乗った。さらに信濃守の二男は涌谷城を居城とし、涌谷美濃守と称して涌谷氏の祖となったとされる。しかし、これとは別に大崎氏5代満持の弟である高詮が百々氏を起こし、高詮の二男直信が涌谷氏を名乗って永享3年(1431)に涌谷城を築いたともされる。
いずれにせよ涌谷氏は涌谷・成沢・馬場・田沼・猪岡・短台・黒岡・小塚の8ヶ郷を支配していた。

天正18年(1590)、大崎氏は13代義隆の時代に、豊臣秀吉の小田原征伐に参陣しなかったため所領を没収され滅亡し、共に涌谷氏も滅んだ。
大崎氏滅亡後は秀吉の家臣である木村伊勢守吉清がこの地を支配したが、大崎氏や葛西氏の旧臣はこれを不服として葛西・大崎一揆を起こしている。しかしこの一揆は蒲生氏郷・伊達政宗らに鎮圧され、一揆の平定後は伊達政宗の支配下となった。

−伊達氏の支配−
天正19年(1591)9月、政宗は居城を米沢城から岩出山城に移し、家臣にも新しい知行割を行った。それにより涌谷地方は8,885石の知行をもって亘理重宗に与えられた。重宗は当初、百々城に入ったが、間もなく涌谷城に居城を移して以後、涌谷城は「涌谷要害」として仙台藩の要衝の地となった。
重宗の子である定宗は慶長11年(1606)に伊達氏の姓を与えられ、一門に列せられた。さらに寛永元年(1624)の知行加増によって涌谷伊達氏の所領は1万石に、寛永21年(1644)にはさらに加増され2万石となっている。
しかし、元禄2年(1689)9月、涌谷城は失火により建物を全焼した。

明治元年(1868)12月、明治維新によって仙台藩が減封された事により、涌谷城は官有となり土浦藩に引き渡され、翌2年(1869)3月に涌谷県庁が城内に置かれた。後の8月には登米県と改称したが、明治4年(1871)11月には登米県は廃止され仙台県及び一関県に編入された。
翌5年(1872)、涌谷城は太鼓堂を除く建物が取壊された。


 ■ 構成
涌谷城は江合川の東側に南北に沿って細長く伸びた丘陵に位置する。
本丸は最高所に位置し、東西40m×南北100mの規模であり、南側に門が位置し土塀で囲まれていた。また北端は幅10m、深さ2m程の空堀によって区切られていた。
二ノ丸は本丸の南側に位置し、東西40〜80m×南北250mの大規模なものであった。藩政時代前期の図面によると、南端には冠木門が設置されていたと思われる。また、この南端には石垣が設けられていた。
大手門は二ノ丸のさらに南側に位置していた。


 ■ 現況
現在は涌谷城跡は城山公園として整備されている。
本丸跡には涌谷神社が、二ノ丸跡には天守閣を模した町立資料館が建てられている。

■ 涌谷城遠望
城の南側に位置する大手門跡付近からの遠望。
■ 二ノ丸跡南端
涌谷神社の入口にあたる。
■ 中門跡
南側に存在した二ノ丸入口である。
■ 二ノ丸跡石垣
右側の尖っている方が往時の石垣。左側の石垣は現代のものである。
■ 二ノ丸跡太鼓堂
天保4年(1833)に再建された二層櫓である。
二層櫓としては宮城県内では唯一の現存建造物である。
■ 涌谷町立史料館
太鼓堂すぐ隣に位置している天守風の建造物である。昭和48年(1973)に完成した。
■ 資料館より二ノ丸跡を望む
細長い二ノ丸が続き、奥には本丸が位置する。
■ 二ノ丸跡
当時は居館が建ち並んでいた。
江戸時代末期には21棟の建築物と3棟の土蔵が設けられていたという。
■ 二ノ丸跡西端
切岸が続いている。
■ 本丸跡へ
二ノ丸北端に位置する。
■ 本丸跡入口
■ 涌谷神社
本丸跡に祀られている。
■ 本丸跡
城の最高所に位置する。
■ 伊達安芸宗重公胸像
伊達安芸守宗重は、寛文11年(1671)の伊達騒動(寛文事件)において原田甲斐宗輔によって
斬殺された。
■ 地図





わくやじょう
涌谷城