■ 沿革
亘理城は小堤城に替わって亘理氏の居城となった城である。
築城時期は明らかでは無いが、天正年間(1573〜92)頃には既に亘理元宗・重宗父子が小堤城の北東約0.5kmの地に亘理城を築いて居城を移している。
しかし、亘理氏は移転直後の天正19年(1591)に涌谷へ転封される事となる。
−景綱と成実、二人の重臣の居城−
亘理氏の替わりに亘理の地に入部したのは片倉小十郎景綱である。景綱は11年間この地を治めると、慶長7年(1602)、白石に転封になった。
替わりに伊達成実が亘理郡内23ヶ村・611貫256文を拝領して亘理城主となり、後に子孫は亘理伊達氏として明治維新に至るまで治世が続いた。
また、亘理城は亘理要害と呼ばれ、白石城に次ぐ南の要衝となった。
明治元年(1868)、戊辰戦争終結の際に亘理城で仙台藩と新政府軍の調印が行われた。
同年、亘理城は南部藩領に、翌明治2年(1869)には白石県(後の角田県)に属した。亘理伊達氏当主である伊達邦成は北海道移住を願い出、明治3年(1870)に家臣を引き連れ有珠郡紋鼈村(現伊達市)に移住し、亘理城は廃城となった。
■ 構成
亘理城は陸前浜街道の地を制する要衝の地にあり、亘理丘陵から東方に突き出た細長い丘陵の東端に位置している。城の西側には大沼が位置して天然の外堀とし、大沼のすぐ東側に本丸が位置している。
本丸は東西に細長く、西端がやや南部に屈折した形で居館が存在した。本丸の出入口は北側の大所門、北東側の裏門、南側の詰門と3つの門が存在していた。本丸の北側には腰郭が置かれ、北側には大所中門が位置していた。本丸の北東・東・南側には「コ」の字形に囲むように内堀がめぐり、その外側には二ノ丸が位置していた。
二ノ丸は外周を外堀によって囲まれおり、家中屋敷や作事所が置かれ北側には北裏門が位置していた。南側には大手門が位置しており、その先は「大手先」と呼ばれ城の正面であった。
本丸の南側と南西にはそれぞれ郭が設けられ、南側の郭には御兵具蔵が存在していた。
■ 現況
現在本丸跡には亘理神社が祀られ、二ノ丸跡はスーパーマーケットの敷地になっている。
その他一部は旧蚕業試験場、亘理高等学校の敷地となっている。
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■ 本丸裏門跡
本丸の北東側に位置しているが、現在は道路によって分断されている。 |
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■ 本丸詰門跡
本丸の南側に位置しているが、裏門同様道路によって破壊されている。 |
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■ 本丸詰門跡入口
明らかに後世のものと思われる。 |
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■ 本丸居館跡
本丸西端には居館が存在していた。
現在は忠魂碑が祀られている。 |
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■ 馬場跡
本丸南側に位置する。
現在は亘理高等学校の敷地となっている。 |
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■ 薬研堀跡
本丸南側の内堀跡である。現在亘理城での唯一残っている堀跡である。 |
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■ 二ノ丸跡
現在はヨークベニマルの敷地となっている。 |
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■ 西裏門跡
画像の道路奥左側に西門跡が存在した。 |
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