余目館跡 |
訪問年月日 |
2008年5月3日 |
別称 |
余目城・余目陣屋 |
所在地 |
山形県東田川郡庄内町余目字館 |
創築者 |
安保氏 |
主要城主 |
安保氏・梅木氏・酒井氏(陣屋時代) |
築城年 |
正平年間(1346〜70) |
廃城年 |
元和元年(1615) |
様式 |
平城 |
構成 |
− |
遺構 |
堀 |
設置・復原物 |
安保氏供養塔 |
文化財指定 |
− |
■ 沿革
余目城は正平年間(1346〜70)頃、安保氏がこの地に入部した際に築かれ、以後は安保氏16代の居館として機能した。安保氏の始祖は安保肥前守忠実(直実)であり、武蔵七党の丹党の流れを組み、高師直の家臣でもあったとされる。
天正3年(1575)に安保能形が死去し、能形の弟で田尻館の館主であった与次郎も尾浦城の大宝寺義氏と戦って討死すると安保氏は滅亡した。
その後、余目城は梅木某が相続したとされるが詳細は不明である。
さらに大宝寺氏が天正19年(1591)に滅亡すると、庄内地方は上杉氏・最上氏へと支配が移った。その間、余目城は清川関と亀ヶ崎城との中間拠点として重要視されていたが、元和元年(1615)に徳川幕府の一国一城令により廃城となった。
後の元和8年(1622)、最上氏が改易となり、替わって庄内地方には酒井氏が入部した。
余目城跡には酒井忠勝の二男・忠俊が入城し、5,000石の知行を持って陣屋を構えた。しかし後嗣に恵まれず、元禄9年(1696)に江戸幕府直轄となった。
■ 構成
現在、館跡は後世の改変により遺構はほとんど消滅しており、判然しない。
わずかに南側と西側に空堀跡が認められ、土塁と空堀によって囲まれた平城であったと想定される。
■ 現況
現在、乗慶寺の敷地が館跡であったとされる。
境内には安保氏を供養する五輪塔が建てられている。
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■ 安保氏供養塔
天保15年(1844)、村の若者らによって安保氏供養のために建立した五輪塔である。 |
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■ 館跡南側
乗慶寺すぐ南側を国道47号線バイパスが貫通している。 |
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