あらためじょう
新田目城
新田目城跡 標柱  訪問年月日  2008年5月3日
 別称  −
 所在地  山形県酒田市本楯字新田目
 創築者  須藤氏
 主要城主  留守氏
 築城年  −
 廃城年  元和年間(1615〜24)
 様式  平城
 構成  本丸・二ノ丸
 遺構  土塁・水堀
 設置・復原物  説明板
 文化財指定  −
 ■ 沿革
新田目城は城輪柵跡の西北西約1.5kmの場所に位置し、山形県で最も古い城館とされている。

−城輪柵の国司、新田目城の留守氏−
11世紀後半、源義家が須藤氏を出羽国留守職に任じ、その須藤氏が居館を築いたのが新田目城の始まりとされている。この時期を家伝では康平5年(1062)、前九年合戦においての阿倍氏との抗争の頃であるとし、『吹浦大物忌神社社記』によると寛治年間(1087〜94)の後三年合戦においての頃とされている。なお、後三年合戦の際の陣立には須藤主馬首助清の名が見える。

その後も城輪柵に赴任する国司に対し、新田目城は留守職に任じられた留守殿の居館として利用されたものと思われる。

−留守氏の居館−
戦国時代に入ると庄内地方は争乱の地となり、新田目城も重要な拠点と目されていたが、それまでの城主は定かではない。大永・天文年間(1521〜56)の頃になると、大泉荘の地頭・大宝寺氏が台頭し、留守氏はその配下に属していた。
この間、一ノ宮大物忌社宮の丸岡民部大輔が宮内館から新田目へ移っており、天正10年(1582)に東禅寺城の前森蔵人が最上氏に通じて大宝寺氏に背いた際には、大宝寺氏に味方した者の中に留守遠江守義氏の名が見える。また、天正14年(1586)に大宝寺氏と最上氏が新田目城の北方で合戦に及んだ際には、留守氏の一門であるとされる今井兵庫が戦死している。

天正16年(1588)、庄内地方が上杉氏の所領となると、上杉氏重臣である甘粕備後守景継が東禅寺城に入り、留守氏はその配下となっている。だが慶長6年(1601)、上杉氏が関ヶ原合戦において西軍に味方し、東軍に属していた最上氏と抗争になると、留守氏は東禅寺城に籠城して最上勢と戦ったが、結果的に上杉氏は敗れて留守氏は浪人となり、後に帰農した。
その後、新田目城は元和年間(1615〜24)に廃城になったものと思われる。


 ■ 構成
新田目城は不整な方形状であり、周囲は水堀で囲まれ、その内側に土塁を設けている。
規模は東西70〜90間×南北50〜60間である。土塁の高さは約5mであった。


 ■ 現況
現在、城跡の東半分は大物忌神社の境内に、西半分は本楯小学校跡地(現在は酒田市北部農民センター)となっており、北辺の一部に水堀が残っている。

■ 主郭跡
現在西側は酒田市北部農民センターの敷地となっている。
■ 西側の北縁土塁跡
北側の水堀の内側に設けられている。
■ 北側水堀
北側に水堀の一部が残っている。
■ 北東端
上記画像のを少々離れて撮影。
■ 土塁跡か
南側に大規模な土塁らしきものが存在している。
遺構なのか後世の物なのかは不明。
■ 大物忌神社参道
城域の東側である。
■ 土塁跡
城域の東半分、大物忌神社の敷地に残る土塁跡。
■ 水堀跡か
一部水路が引かれており、かつての水堀跡であったのかもしれない。