はせどうじょう
長谷堂城
長谷堂城 主郭跡  訪問年月日  2003年11月3日 / 2008年5月4日
 別称  −
 所在地  山形県山形市本沢長谷堂楯山
 創築者  −
 主要城主  志村氏・坂氏
 築城年  −
 廃城年  元和8年(1622)
 様式  山城
 構成  主郭・腰郭
 遺構  郭・土塁・空堀・登城道
 設置・復原物  説明板・標柱
 文化財指定  −
 ■ 沿革
長谷堂城が初めて記録に見えるのは永正11年(1514)の事である。
『伊達文書』よると、永正11年(1514)2月頃に伊達稙宗が最上氏と戦い、長谷堂城を落とした事が伝わっている。その後、長谷堂城は最上氏の勢力下に置かれ、最上領の南西方面の押さえとして重要な支城の役割を果たしていた。
文禄3年(1594)には最上義光の重臣である志村伊豆守光安が城主となるが、間もなく慶長5年(1600)の出羽合戦において、最上氏は直江兼続率いる上杉勢の攻撃を受けた。

−長谷堂城攻防戦−
上杉勢は2万余名の大軍によって最上氏の各支城を攻略し、9月13日には畑谷城を落城させた。そしてついに9月16日、最上氏の居城である山形城攻撃のため、兼続は長谷堂城より北方に1.2km隔てた須賀沢(菅沢)に本陣を置き、長谷堂城を攻撃する体勢に入った。
対する光安は5,000余名(一説には1,000名)の兵を率いて籠城し、200名の精鋭を選んで上杉陣営の春日右衛門元忠に夜討をかけるなどして上杉勢を翻弄した。また鮭延越前守秀綱らの支援も受け、上杉勢の大軍を相手に頑強に抵抗し、9月16日から2週間以上城をを守り通した。

9月29日、兼続の下に「関ヶ原において石田三成が敗北した」という知らせが届き、10月1日には長谷堂城の包囲を解いて全軍撤退を開始した。
この戦いにおいて、上杉勢は上泉主水泰綱や溝口左馬之助ら重臣や多くの将兵を失った。また、光安は長谷堂城を守りきった功により、東禅寺城に3万石で封じられる結果となった。

−出羽合戦後の長谷堂城−
慶長6年(1601)に光安は東禅寺城に移り、替わりに長谷堂城には成沢城主であった坂紀伊守光秀が入った。その後、光秀は山麓に新しく御殿を築き、山頂の山城は廃されたと考えられる。
元和2年(1616)には光秀が没し、光重が跡を継いだ。

元和8年(1622)、最上氏が改易となると長谷堂城は廃城となった。


 ■ 構成
主郭は東西約70m×南北78mで最高所に位置し、その周囲に求心状に帯郭群が置かれ、特に南側には多数の郭が置かれていた。主郭の東南端には東に向けて枡形虎口が設けられ、主郭の南方には長谷堂城の謂れとなった長谷堂が位置している。
登城口は北より八幡口、東側の大手口、南東の搦手観音口の3ヶ所であった。


 ■ 現況
現在は主郭に石碑や東屋が設けられ、主郭へ至る各登城口も整備されている。

■ 大手門口
東側に位置する。
■ 大手道
石段が設けられている。
■ 大手門口慈眼堂
大手門口登ってすぐの所に位置する。
■ 主郭南側
空堀跡が存在する。
■ 主郭南側入口
脇に稲荷神社が位置する。
■ 主郭南側腰郭
主郭の外周には幾つもの腰郭が存在する。
■ 主郭跡
頂部に位置する。
■ 主郭跡
部分部分に土塁らしき遺構が残っている。
■ 主郭跡
東西約70m×南北78mの面積である。
■ 主郭跡眺望
天候が良ければ山形城を望む事ができる。
■ 主郭西側虎口
主郭の南側と西側に虎口が位置している。
■ 主郭西側腰郭
主郭西側外周に位置する。
■ 西側斜面
西側は急角度の斜面となっている。
■ 観音堂
主郭南側に位置する。
周辺は二ノ郭となっている。
■ 観音堂より主郭跡を望む
二ノ郭〜主郭間である。
■ 観音口登道
観音堂付近に続いている登城道である。
搦手口にあたる。
■ 観音口
登城口の一つである。
■ 八幡口
北側の登城口である。
■ 本沢川
城の南側を流れる。
■ 番所跡
城の南側麓に位置する。
■ 長谷堂城遠望
西方より望む。
■ 主水塚
上泉主水泰綱が討死した付近に祀られている。