はたやじょう
畑谷城
畑谷城跡  訪問年月日  2008年5月4日
 別称  −
 所在地  山形県東村山郡山辺町畑谷字館山
 創築者  −
 主要城主  江口五兵衛光清
 築城年  −
 廃城年  慶長5年(1600)
 様式  山城
 構成  主郭・東部大空堀・西部三重空堀
 遺構  郭・空堀
 設置・復原物  説明板・記念碑
 文化財指定  −
 ■ 沿革
畑谷城の創建時期は不明である。
しかし位置的に最上領における置賜方面に対する要衝の地であった。そのため最上義光はこの畑谷城に、武勇の誉れ高い江口五兵衛光清(道連)に8,000石を与え守らせていた。

−上杉勢の最上領侵攻−
慶長5年(1600)、直江兼続が率いる上杉勢により、最上領は3方面からの攻撃を受けた。兼続自身は置賜より荒砥方面を経由して狐越街道を山形城へ向けて進軍し、畑谷城に迫った。
これに対し義光は上杉勢を山形城まで引摺り込む作戦(当時は「明け逃げ」と呼ばれた)を取るべく、光清に撤退命令を出した。しかし光清は「敵を目前にして城を捨てたとあっては末代までの名折れ」と言ってこれを聞き入れず、畑谷城に残った。

−江口光清の奮戦−
9月11日未明、畑谷城は上杉勢約2万余の軍勢に囲まれた。兼続は「開城すれば名誉ある処遇をする」と申し出たが、光清はこれを拒否、約300名の手勢を率いて籠城策に出た。
上杉勢は13日未明に攻撃を開始したが、城内よりの応戦が激しく、攻めあぐねていた。そこで兼続は一部の手勢を畑谷城の裏山に回らせ、一斉攻撃を開始した。これには城兵らもたまらず、光清の指揮により全員が打って出た。光清らの死にもの狂いの奮戦に上杉勢は正面より相手にする者はいなかったが、多勢に無勢、子の江口小吉時直や、甥の松田忠作らが討取られ、光清も城内に戻り自刃して果てた。この間約一刻(約2時間)であったという。

こうして畑谷城は落城したが、光清の奮戦ぶりは最上勢の士気を大いに高める事となり、また上杉勢はこの戦いによって1,000名にも上る死傷者を出して2日間の足止めを受けた。これにより、この後の長谷堂城合戦での上杉勢撃退に繋がる事となった。
その後畑谷城はそのまま廃城になったものと思われる。


 ■ 構成
畑谷集落の後背に位置する館山中央頂部、比高70mの地に主郭が位置する。
主郭は東西19m×南北29mの規模であり、南西側に枡形虎口が設置されていた。
主郭の西側には三重の空堀が配され、東側には大規模な空堀・土塁群が設けられていた。


 ■ 現況
現在、主郭跡には江口光清の碑と「畑谷合戦四百年」の記念碑が建てられ、南東に位置する長松寺には江口光清の墓が祀られている。
また、東側に位置す大空堀は良好な状態で残っている。

■ 畑谷城入口
畑谷集落よりの入口。
説明板が設置されている。
■ 東部大空堀跡
入口に添って空堀が存在している。
■ 東部大空堀跡
上記画像の反対側より見たところ。
■ 東部大空堀跡
道路より垂直に奥に続いている。
■ 東部大空堀跡
高さ2m以上の深さである。
■ 東部大空堀跡
非常に大きい空堀である。
■ 東部大空堀跡
東部大空堀の最深部である。
■ 東部大空堀跡
道路左側一帯が空堀である。
■ 主郭入口
登り道入口である。
■ 登道
■ 登道
■ 主郭虎口跡
枡形が設けられている。
■ 主郭虎口跡
上部より望んだところ。
■ 主郭跡
東西19m×南北29mの規模である。
■ 主郭跡
現在は江口光清を偲ぶ石碑が建立されている。
■ 主郭西側腰郭跡
主郭の西側に一段低く存在する。
■ 長松寺
畑谷城麓に位置し、江口光清の墓所が存在している。
■ 地図
現地説明板より。