■ 沿革
南北朝時代の貞和3年(正平2・1347)、小田島長義がこの地に入部し、東根城を築いたとされる。
小田島氏は南朝方に属していたが、最上(斯波)氏が村山地方に勢力を伸ばし始めると、次第に圧迫され北方に去ったという。
−東根氏と里見氏−
応永2年(1395)には斯波氏の一族であった天童頼直の第4子 坂本頼高が城主となり、東根氏を名乗った。東根氏は頼高以後7代続いたが、天正12年(1584)、当時の城主である東根頼景に替わって里見源左衛門景佐が城主となった。『奥羽永慶軍記』によると、最上義光によって東根城が攻撃された際、里見景佐の内応によって落城したとされる。しかし『最上・天童・東根系譜』によると景佐は頼景の弟であり、頼景が天正9年(1581)に庄内で討死した後に跡を継いだともされている。
−里見景佐の死去と最上氏改易−
里見景佐は最上義光に忠節を尽くし、また義光からの信頼も厚かった。景佐は東根城主となると城の整備に注力し、本丸程度の規模であった東根城に二ノ丸・三ノ丸を造営して、さらに城下町の整備を行った。元和6(1620)、景佐は最上氏の先行きを案じながら死去したが、奇しくもその2年後の元和8年(1622)、最上氏は改易となる。それに伴って里見氏は阿波国に流され、蜂須賀氏預かりの身になった。
その後、東根城は仙台藩境であったため、山形城主の鳥居忠政預かりの下、延沢城と共に存続が許された。寛文元年(1661)に城は破却されたが、二ノ丸跡に陣屋が置かれ、山形藩・白河藩などの陣屋となっていたが寛文8年(1668)に幕府天領となってからは破却された。
■ 構成
東根城は南端に本丸が位置し、北・西・南側を覆うように二ノ丸が位置している。
また、二ノ丸の外側に三ノ丸が位置していた。
本丸の北側と北東側には広い沼地が存在し、堀の役目を果たしていたと思われる。
■ 現況
現在は本丸跡は東根小学校となっており、樹齢1500年以上といわれる大ケヤキが残っている。
二ノ丸・三ノ丸は市街地化され、遺構は殆ど残っていないが龍興寺沼・光専寺沼・中沼などが往時を忍ばせている。
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■ 三ノ丸跡
本丸の西側に位置する。
現在は県道304号線が通っている。 |
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■ 龍興寺沼
二ノ丸と三ノ丸の間に位置する。
かつては堤堀の役割を果たしていたが、現在は公園として開放されている。 |
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■ 二ノ丸跡
本丸の西側に位置する。
現在は住宅地となっており、遺構は殆ど残っていない。 |
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■ 本丸跡
現在は東根小学校の敷地となっている。
周辺より一段高めに位置している。 |
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■ 大ケヤキ
本丸跡西側に位置し、国指定特別天然記念物に指定されている。
かつては「雄槻」「雌槻」と呼ばれた2本のケヤキが存在していたが、明治18年(1885)に雄槻が枯れてしまったため、現在は雌槻のみが残る。
伝わるところによると、このケヤキは小田島長義が東根城を築いた際に植えたものと言われてきた。しかし推定樹齢は1500年以上ということで年数にズレが生じる。いずれにせよ東根城の盛衰を見守り続けてきた事は間違いない。 |
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■ 本丸土塁跡か
本丸北側に土塁らしき物が存在する。こちらも往時の物かは不明。 |
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■ 中沼
三ノ丸に位置する。
龍興寺沼同様、かつては堤堀として利用されていた。 |
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■ 中沼西側
土塁のような物と平地が存在している。 |
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