■ 沿革
藤島城の創建は明らかではない。しかし和銅年間(708〜713)に出羽の国府が設置された際、国府に付随して置かれたともいわれている。
この地は南北朝時代より重要な南朝方の拠点であった。
元弘3年(1333)、元弘の変によって出羽に流されてきた葉室光顕が出羽守に任命された時に居城としたものと思われる。葉室氏は北朝方との戦いによって光顕の子である光世・光久兄弟へと代が移っていったが、藤島の地は南朝の拠点であることに変わりは無かった。
−北畠氏の入城−
貞和3年(正平2・1347)、南朝方の北畠顕信は北朝方の結城氏や相馬氏と戦って敗れ、守良親王を奉じて出羽国立谷沢城に逃れた。そして北朝方である足利氏の内紛に乗じて南朝方の勢力を拡大させたが、足利氏の内紛が収まると再び形成は逆転し、南朝方が不利になった。
貞和4年(正平3・1347)になると立谷沢城は結城氏の大軍に囲まれた。顕信は善戦したものの敗れ落城し、顕信は藤島城に逃げ、勢力を回復させながら延文元年(正平11・1356)、再度兵を挙げたが形勢は動かず、藤島城は落城した。
−大宝寺氏の重臣・土佐林氏−
その後、戦国時代になると城主は大宝寺氏の家老職を務める土佐林氏へと替わり、土佐林禅棟の代に勢力を伸ばした。禅棟は一時、幼少であった大宝寺義氏に成り代って政務を取り仕切るなど、主君である大宝寺氏を凌ぐ力を持ったが、元亀2年(1571)、義氏の攻撃を受け滅ぼされた。その後、藤島城には義氏の弟である丸岡兵庫頭が丸岡城より入城し、土佐林氏が持つ羽黒山別当職も兼務した。しかし兄・義氏が天正11年(1581)に最上義光に内通した東禅寺義長によって討たれたため、丸岡兵庫頭は大宝寺氏を継いで義興を名乗り、尾浦城へ移った。
その後、藤島城を含む庄内の地は上杉景勝の所領となったが、天正18年(1590)、豊臣秀吉の太閤検地の際、栗田刑部小輔国時が藤島城に入城して検地に当たった。しかし金右馬允がこれを不服として蜂起し、藤島川の対岸に金ノ郭を築いてこれを藤島城の出丸として抵抗したが、結果的に鎮圧された。その際、上杉氏の重臣である直江兼続が一気鎮圧に臨んだが、藤島城自体はついに落とす事が出来なかったという。
関ヶ原合戦後は藤島城は最上義光の支城となり、家臣である新関因幡守久正が城主となったが、元和元年(1615)、江戸幕府の一国一城令によって廃城となった。
■ 構成
本丸は方形状で周辺よりも一段高く、土塁と水堀によって囲まれていた。
大手口は現在の八幡神社入口と同じく東側に位置し、北側にも出入口があった。
本丸の周囲には二ノ丸が配置され、北側にも郭があり南北に長い形状であった。また藤島川を外堀として、対岸には金ノ郭があった。
■ 現況
現在は本丸跡に八幡神社が祀られている。遺構は本丸の土塁と水堀の一部が残存している。
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■ 本丸大手口跡
城の東側に位置する。現在の八幡宮の入口になっており、赤鳥居が建っている。 |
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■ 本丸大手道跡
八幡宮の参道となっており、両側を土塁によって挟まれている。 |
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■ 本丸南東側土塁
大手口向かって左手側の土塁である。 |
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■ 本丸北西側土塁跡
土塁上に板碑が祀られている。 |
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■ 二ノ丸跡
本丸の北東側に位置する。
現在は庄内農業高等学校の敷地となっている。 |
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