かめがさきじょう
亀ヶ崎城
亀ヶ崎城跡 標柱  訪問年月日  2003年7月20日 / 2008年5月3日
 別称  酒田城・東禅寺城
 所在地  山形県酒田市亀ヶ崎
 創築者  大宝寺(武藤)氏
 主要城主  大宝寺氏・東禅寺勝正・本庄繁長・酒井氏
 築城年  文明10年(1478)
 廃城年  明治元年(1868)
 様式  平城
 構成  本丸・二ノ丸
 遺構  土塁
 設置・復原物  説明板・標柱
 文化財指定  −
 ■ 沿革
亀ヶ岡城は当初は東禅寺城と呼ばれ、通年「酒田城」とも呼ばれていた。
酒田が湊としての機能を果たしていたのは鎌倉時代の頃からともいわれ、当時からの城館の存在は明らかではく、築城時期も諸説あるため詳細は不明である。

−東禅寺城築城−
尾浦城に居城を構えていた大宝寺氏は、支族である砂越氏の反抗に手を焼いていた。そこで文明10年(1478)、最上川南に東禅寺城を築き、一族を配置してこれに当たらせた。以後、東禅寺城主は東禅寺氏を名乗った。
尾浦城主であった大宝寺義氏は、一門の前森蔵人を東禅寺城主に任じ、蔵人は東禅寺筑前守義長を名乗った。しかし義長は、庄内地方を狙っていた山形城主・最上義光と結んで天正11年(1583)、弟である東禅寺右馬頭勝正と共に尾浦城を攻撃し、義氏を自害させた。
これにより庄内地方は最上氏の影響が大きくなったが、尾浦城には義氏の弟である丸岡兵庫頭が城主として入城し、大宝寺氏を継いで義興を名乗った。義興は最上氏への対抗策として、越後国の本庄繁長と結びつきを強め、繁長の二男・千勝丸を養子とした。

−大宝寺氏の滅亡−
天正15年(1587)、またもや義長は最上氏と組んで尾浦城を攻め、義興を自害に追い込んだ。これにより大宝寺氏は滅亡し、庄内地方は改めて最上氏の勢力下に置かれた。そして尾浦城は東禅寺氏の居城となった。
しかし、まもなく本庄繁長の反撃が始まり、翌天正16年(1588)には6,500名とも2万余名ともいわれる大軍をもって庄内地方を攻撃した。これに対し東禅寺義長は弟の勝正に迎え撃たせたが、勝正は十五里ヶ原合戦において敗れた。このため庄内地方は上杉氏の勢力に置かれた。東禅寺城には繁長自らが入ったが、後に川村彦左衛門・甘粕備後守景継・志田修理亮義秀らが城代として任じられた。

慶長5年(1600)、関ヶ原合戦において、上杉景勝はこれに連動して最上領に侵攻した。しかし直後に中央での徳川方の勝利を知り、至急庄内より撤退を開始する。最上義光はこれを追撃し、志田義秀が立て籠もる東禅寺城を落城させ、義秀は米沢に撤退した。

戦後、論功行賞にて庄内地方は最上氏に与えられ、義光は志村伊豆守光安を城主として任じた。
慶長8年(1603)、酒田にて大亀が上がり、これを祝して東禅寺城の名称を亀ヶ崎城と改称した。この際に大宝寺城も呼応して鶴ヶ岡城と改称されている。
後に最上氏は3代藩主・義俊の代の元和8年(1622)に改易となった。

−庄内藩の城−
最上氏改易後、旧最上領は分割され、庄内地方には信濃国松代より酒井忠勝が13万8,000石で転封され、庄内藩が成立した。庄内藩では鶴ヶ岡を居城としたが、亀ヶ崎城は支城として存続が許された。当初は松平久恒が城代となり、以後も城代が在城した。
その後、幕末まで存続したが、明治維新により廃城となった。


 ■ 構成
亀ヶ崎城は略方形の郭をを設け、堀で区切って東側を本丸、西側を二ノ丸とした。
これらはさらに二重の外堀で囲み、南側に三ノ丸、西側を流れる新井田川を隔てて四ノ丸を設けていた。


 ■ 現況
現在、本丸跡・二ノ丸跡は山形県立酒田東高校の敷地となり、一部の土塁を残して遺構はほとんど残っていない。三ノ丸跡は酒田市立亀城小学校、四ノ丸跡は山形県立酒田商業高校の敷地となっている。
また、三ノ丸南側に位置していた搦手門は唯一の現存建造物として円通寺山門として移築されている。

■ 亀ヶ崎八幡宮
本丸跡地に祀られている。
■ 本丸跡
現在は山形県立酒田東高校の敷地となっている。
■ 本丸土塁跡
土塁の一部が現存する。
■ 本丸土塁跡
上記画像の土塁とL字状に残っている。
■ 二ノ丸跡
本丸の西側に位置する。
■ 新井田川
四ノ丸が対岸に位置していた。
■ 三ノ丸跡標柱
かつてこのあたりには堀があったとされる。
■ 三ノ丸跡
現在は酒田市立亀城小学校の敷地となっている。
■ 三ノ丸跡
二ノ丸方面を望む。
■ 現存搦手門
亀ヶ崎城唯一の現存建造物として円通寺山門として移築されている。