かみのやまじょう
上山城
上山城 模擬天守  訪問年月日  2008年5月4日
 別称  月岡城
 所在地  山形県上山市元城内
 創築者  武衛義忠
 主要城主  武衛(上山)氏
 築城年  天文4年(1535)
 廃城年  明治4年(1871)
 様式  平山城
 構成  本丸・二ノ丸
 遺構  土塁・堀切・門跡
 設置・復原物  模擬天守・説明板・標柱
 文化財指定  −
 ■ 沿革
最上氏の祖である斯波兼頼の曾孫、天童満長は上山に分知されていた。満長は虚空蔵山に高楯城を築いて居城とし、その子孫は武衛氏を名乗った。
上山の地は最上氏・伊達氏の勢力がせめぎ合う地であり、永正5年(1508)、高楯城は伊達氏の攻撃を受け、城主の武衛義房は主家・天童氏の下に逃亡し、高楯城には伊達氏配下の小梁川真範が入城した。

−上山氏の居城として−
天文4年(1535)、義房の子である武衛義忠は小梁川真範より高楯城を奪還する事に成功し、その後天神森と呼ばれる地に上山城を築いて居城とした。その際に、義忠は上山氏を名乗ったとものと思われる。
上山氏3代満兼の代、天童氏とその主家・最上義光との間に不和が生じた。満兼は天童氏一門として義光に対抗し、米沢城主である伊達稙宗の応援を得た。しかし柏木山合戦において上山氏・伊達氏連合軍は最上氏に敗れた。
さらに天正7年(1579)には最上義光に謀られ、満兼は義光家臣の里見越後守・民部父子に暗殺された。その後、上山城は里見越後守が城代となった。

慶長5年(1600)、山形合戦において直江兼続率いる上杉勢が最上領に侵攻した際、上山城も直江軍の第二軍に囲まれた。しかし城代の里見民部は周囲の山中に伏兵を潜ませ、直江軍の背後を急襲して戦果をあげた。同時に長谷堂城でも直江軍は攻めあぐね、関ヶ原合戦においての石田三成の敗走の報を聞いた上杉勢は撤退することとなった。
このように最上氏配下として活躍した里見氏もやがて義光と不和になり、民部は越後に逃れようと流浪の末、慶長19年(1614)に丸岡において殺害された。

−江戸時代においての上山城−
上山城は元和8年(1622)の最上氏改易と共に没収され、遠江国横須賀城主の松平丹後守重忠が4万石で入部した。重忠は城下町や街道の整備に力を入れ、温泉の開発も積極的に行い、5年間の治世の後に摂津国三田に転封された。

その後寛永5年(1628)、下総国相馬郡より2万5,000石で入部した土岐山城守頼行は城内の整備に注力し、南東に大手門や三層の天守を擁する本丸・二ノ丸・三ノ丸・三層櫓・隅櫓・外堀を設けた。2代頼殷の代にはさらに豪奢を極めたという。大池を造り、小島を設け小船を浮かべるなどし、さらに岩石・老木を配した庭園を造営し、「松山御殿」と称された。しかしこの様な振舞いは小藩に相応しいものではなく、幕府によって睨まれ、越前国野岡に転封となった。

元禄5年(1692)、永田作太夫・小野浅之丞ら代官の手によって天守は解体され、石垣を崩し堀を埋め、荘厳な庭園も破壊された。
その後、飛騨国高山より金森出雲守頼時が3万8,700石をもって入部したが、城が破壊直後であったため、二ノ丸沼口に居館を築いて居住した。元禄10年(1697)、頼時も在地6年で転封され、松平信通は幕府の許可を得て本丸と城門を修復し、さらに15年後に再び築城の許可を得た。

この後は松平氏の治世が続いたが、明治4年(1871)、信安の代に廃藩置県により城郭は破壊され、廃城となった。


 ■ 構成
上山城は土岐氏転封の際に徹底的に改変されたが、築城時は西方に大手門が設けられ、土門を配していた。
周囲には牛沼・大沼・南方より流れる前川を堀として利用していたという。


 ■ 現況
現在、本丸跡は月岡神社が祀られている。二ノ丸跡は公園となり、模擬天守が建てられている。

■ 二ノ丸跡
現在は公園となっている。
■ 二ノ丸跡
模擬天守展望台より望んだところ。
■ 堀切跡
本丸と二ノ丸を区切っている。
■ 二ノ丸跡
現在は模擬天守が建てられている。
■ 模擬天守
昭和57年(1982)、二ノ丸跡に鉄筋コンクリート製の模擬天守が建てられた。
これは往時の建造物とは位置・外観共に異なるものである。
■ 本丸跡東側
小規模な土塁・空堀跡が残る。
■ 本丸跡東側入口
土塁に切れ間が存在する。
■ 本丸跡
かつては大手門や三層天守が存在していた。
■ 月岡神社
本丸跡に祀られている。
■ 本丸跡土岐桜
平成12年(2000)、土岐氏の偉業を称え、土岐氏19代實光氏より桜の苗木の寄贈を受け、植樹した。
■ 本丸跡土岐灯篭
元禄5年(1692)、土岐氏は越前国野岡に転封後、上山城の建造物は破却された。
翌元禄6年(1693)、土岐氏は江戸に屋敷を与えられ、明治31年(1898)まで土岐氏が居住していた。その屋敷跡庭園が平成15年(2003)7月に改造されるにあたり石灯篭6基と七層石塔1基が寄贈された。
■ 本丸跡沢庵桜
寛永6年(1629)、沢庵禅師が57歳で上山に配流された。
当時の上山藩主・土岐頼行は禅師を手厚く待遇し、沢庵が愛した桜を領民らは「沢庵桜」と呼んだ。
後、土岐氏の転封により上山城の施設が破却されると、沢庵桜も切り倒された。その後しばらくは花を咲かせていたが、30年後、惜しくも枯れ果ててしまった。しかしこの成木より苗木を育て、現在の沢庵桜として植樹された。