かりかわじょう
狩川城
狩川城 遠望  訪問年月日  2008年5月3日
 別称  楯山城
 所在地  山形県東田川郡庄内町狩川
 創築者  斎藤新九郎俊氏か
 主要城主  北館大学利長
 築城年  −
 廃城年  元和元年(1615)
 様式  山城
 構成  本丸・二ノ丸・三ノ丸
 遺構  郭・空堀
 設置・復原物  説明板
 文化財指定  −
 ■ 沿革
狩川城は出羽国郡司である小野良実の後裔・斎藤新九郎俊氏が築いたとされるが、確証は無い。

天正19年(1589)、大宝寺氏が滅亡し、庄内地方の領有が上杉氏へ移った。これにより、上杉氏重臣の直江兼続によって検地が行われたが、これに対して抵抗する一揆が起き、狩川城もこの拠点となった。
慶長6年(1601)、上杉氏が関ヶ原合戦において西軍側へ味方したため、庄内地方は没収され、最上義光へ与えられた。義光は狩川城の城代として北館大学利長を任じ、狩川・清川・立谷沢の3,000石が与えられた。
利長は慶長17年(1612)に立谷沢川の治水事業により、北楯堰を築いて新田開発を行い、堰完成後30年にして狩川の石高は10倍に増えたといわれる。

元和元年(1615)、幕府による一国一城令により、狩川城は廃城となった。


 ■ 構成
狩川城は笠山から北へ突き出た尾根を利用しており、本丸は東西100m×南北130m程で東側と西側に帯郭が設けられていた。
南側は空堀で区切られ、二ノ丸・三ノ丸へ続いている。大手口は東側に設けられていたとされる。


 ■ 現況
現在、楯山公園としてグラウンド・ステージなどが設けられており、遺構の改変は著しい。

■ 楯山公園入口
南側からの入口である。
空堀の上に橋が架けられている。かつての出入口であったかどうかは不明。
■ 空堀跡
南側を区切っている。
■ 本丸跡
楯山公園グラウンドとなっている。
■ 本丸東側入口
大手口は東側にあったとされるが、これが大手口であったかどうかは不明。
■ 東側腰郭跡
一段下に存在する。
■ 本丸北端腰郭跡
城下が一望できる。
■ 北側出入口
階段が設けられ、直進で上れる。
これも後世の物かどうかは不明。
■ 北館大学利長公銅像
■ 北舘神社
本丸南側に祀られている。

■ 二ノ丸・三ノ丸跡
本丸跡南側に位置する。
二ノ丸・三ノ丸跡は後世の改変により遺構がほとんど残っておらず、区分も不明瞭である。

■ 楯山公園地図
説明板より。