■ 沿革
丸岡城はかつて戦国時代に押切備前守が築いたとされ、備前守が横川城に居城を移してからは大宝寺兵庫頭が丸岡氏を名乗って在城した。
天正11年(1583)、丸岡兵庫頭の兄である大宝寺義氏が暗殺されると、兵庫頭は尾浦城に移り、名を義興と名乗って大宝寺氏を継いだ。義興は後に越後国の上杉氏の重臣である本庄繁長より養子を迎え、関係を密にしたが、天正15年(1587)、最上義光の攻撃を受けて大宝寺氏は敗北し、義興は自害した(一説には助命され、山形に連行されたとも)。
元和元年(1615)、江戸幕府の一国一城令により一旦廃城となったが、元和8年(1622)に最上氏が改易となると、庄内地方は酒井忠勝が13万8,000石で入部し、以降明治維新に至っている。
−加藤氏の蟄居−
寛永9年(1632)、加藤清正の嫡子である忠廣が突如改易となり、肥後54万石が没収された。
忠廣の身は庄内藩に預けられ、酒井氏の庇護の下で丸岡城跡に館を与えられ、居館とした。しかし館が丸岡大火によって焼失すると、忠廣が京都にいた頃の館を移築したとされる。
承応2年(1653)に忠廣が死去すると所領は幕府直轄となり、丸岡城の建物の一部は藤島に移され、藩主の参勤交代の際の休息所として使われた。明治5年(1872)、さらにその建物は東田川郡羽黒町松ヶ岡の開墾場に移され、開墾の本陣として使用された。
■ 構成
丸岡城は方形の単郭式と思われ、2ヘクタール程度の面積であった。
四方を土塁と水堀で囲まれ、大手口は東側に位置しており、町屋が配されていた。城域には御居間・御所院・御蔵長屋などが存在していた。
■ 現況
現在、城跡の北側には天澤寺が位置し、加藤清正を祀った「清正閣」や、清正の墓などが存在する。
南側には郭・堀跡が残っている。
|
■ 本丸北側
天澤寺参道となっている
画像すぐ右脇には里見氏主従の墓が祀られている。 |
|
|
|
|
|
■ 百間掘跡
外周を囲んでいた堀が「外堀」と呼ばれていた事に対し、奥庭の泉水を「百軒堀」と呼んだ。 |
|
|
■ 巫子石・太夫石跡
忠廣が両親を一時密葬した聖地。
太夫石には清正の骨壷が、巫子石には生母・正応院が土葬されたという。 |
|
|
|
■ 加藤家家臣墓石
熊本より忠廣に従って出羽国に赴いた家臣らの墓所。 |
|
|