■ 沿革
松山城は松山藩の居城であり、鶴ヶ岡城の支城として築かれた。松山藩は支藩であったので正式には松山陣屋という。この地にはかつて14世紀後半頃創築されたという中山館が存在していた。
−庄内藩の支藩として−
元和8年(1622)に酒井忠勝が鶴ヶ岡城に入城して14万石を得ると、忠勝の弟である直次も支藩として左沢藩1万8,000石、白岩にもう一人の弟忠重に8,000石が与えられた。
正保4年(1647)、忠勝が死去すると忠勝の嫡子である忠当が跡を継ぎ、三男忠恒に中山2万石、七男忠解に大山1万石が与えられた。その際忠恒は中山館跡の地に陣屋を構え、支藩として中山藩が成立した。
寛文4年(1664)には中山の地名は松山と改められ、3代忠休の代である安永8年(1779)には幕府より築城の許可を得、5,000石の加増と御用金2,000両を賜った。さらに城門には武門の誉れとされる鯱をあげる事が許可された。
築城を開始したのは天明元年(1781)のことであり、以後7年をかけて完成した。しかし寛政2年(1790)、落雷によって大手門を焼失し、現在残っている大手門は酒田の大豪商・本間重利が寄進したものである。
その後親藩である庄内藩は江戸市中取締役に任じられるなど活躍が認められたが、慶応3年(1867)、鳥羽・伏見の戦いにおいて幕府方についた松山藩は、家老の長坂左近之介を先鋒として江戸の薩摩藩屋敷を襲撃した。
翌年、庄内藩と合同で薩長軍の進撃に備えたが、明治元年(1868)に降伏、松山城は廃城となったが大手門だけは残された。
■ 構成
松山城は本丸を中心とし、東から南北を囲むようにして二ノ丸が位置し、それらを西から南北を囲むように三ノ丸が位置していた。大手門は三ノ丸西側に位置し、正面5間、背面3間、梁間3間、で入母屋造・桟瓦葺の櫓門である。
総欅造で白壁、大棟の左右に乗る銅製の鯱は4尺8寸(約1.5m)という2万5,000石の小藩には不釣合いともいえるほどの規模である。
■ 現況
松山城は旧状をほとんど留めておらず、酒田市松山文化伝承館の敷地内に大手門とその周辺に僅かに水堀・土塁などが残っているにすぎない。
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■ 大手門跡前の通り
画像左側に大手門が位置する。 |
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■ 大手門
城郭としては山形県内で唯一現存する建造物である。県指定文化財に指定されている。 |
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■ 酒田市松山文化伝承館入口
伝承館もう片方の入口。画像奥に大手門の屋根が見える。 |
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■ 町内
大手門北側の道路。城下町に相応しく入組んだ構成である。 |
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■ 大手前広場跡
旧松山町の大通りである。川を挟んで一方通行の道路が並んで走っている。 |
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