溝延城 本丸跡 |
訪問年月日 |
2008年5月4日 |
別称 |
− |
所在地 |
山形県西村山郡河北町溝延字本丸 |
創築者 |
溝延茂信 |
主要城主 |
溝延氏 |
築城年 |
− |
廃城年 |
天正年間(1573〜1593) |
様式 |
平城 |
構成 |
本丸・二ノ丸・三ノ丸 |
遺構 |
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設置・復原物 |
説明板・標柱・冠木門 |
文化財指定 |
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■ 沿革
溝延城は寒河江城の支城であり、寒河江氏の一族が城主であった。
14世紀頃、寒河江氏7代時茂は長子・茂信を寒河江城の北西約3kmの地に配し、溝延城を築かせた。これにより、茂信は溝延茂信と名乗り、寒河江城の北の押さえの役割を果たした。
−漆川合戦−
正平23年(貞治6・1368)、漆川合戦において寒河江氏は最上氏に敗北し、総大将であった溝延茂信以下一族60余名が自刃して果てた。だが辛くもこの戦いにより寒河江氏は滅亡を免れ、溝延氏は茂信の子・家広が継いだ。
その後、溝延氏は家広の子・溝延七郎尊広が継いで数代続いたが、天正12年(1584)、寒河江氏当主である高基が最上義光の軍勢に敗れ、溝延氏は寒河江氏と共に滅亡した。この時の溝延城主は溝延長老であったとされ、義光によって自害させられたという。
寒河江氏滅亡後、義光は溝延城に溝延越中守を5,000石で配したが、間もなく廃城となったものと思われる。
■ 構成
溝延城は寒河江城と構造が似通っていたとされ、長方形状の輪郭式であった。
本丸は東西77m×南北36mの規模であり、その周りに二ノ丸を配し、面積は東西216m×南北180m、さらにその外周に三ノ丸が位置し、面積は東西432m×南北396mであった。
■ 現況
現在、本丸跡は溝延城址公園となり、かつての溝延城の配置を15分の1に縮小して再現している。
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■ 本丸跡
現在は溝延城址公園となり、かつての溝延城の配置を15分の1に縮小して再現している。 |
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■ 溝延八幡神社
二ノ丸と三ノ丸の中間に位置しているという。
社殿は寛文7年(1667)の建立といわれる。 |
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