ながとろじょう
長瀞城
長瀞城跡 石碑  訪問年月日  2006年9月17日 / 2007年7月24日
 別称  雁城・長瀞陣屋
 所在地  山形県東根市長瀞字楯の内
 創築者  西根氏
 主要城主  西根氏・長瀞氏
 築城年  建長年間(1249〜56)
 廃城年  元和年間(1615〜24)
 様式  平城/輪郭式
 構成  本丸・二ノ丸・三ノ丸
 遺構  郭・水堀
 設置・復原物  石碑・説明板
 文化財指定  −
 ■ 沿革
長瀞城は小田島荘の中心に位置し、建長年間(1249〜56)に西根氏が築城したと伝えられる。
応永21年(1414)に最上満家が入部し、この城に隠居したとされているが詳細は不明である。

戦国時代には天童氏家臣の長瀞左衛門が在城し、度々最上氏と争ったという。その後、天童氏が最上義光によって滅ぼされると、義光は郡代として遠山外記を派遣して長瀞城に入城させた。後に外記は尾花沢郡代であった新館十郎と戦い、延沢氏に滅ぼされたとされる。
その間、義光の弟が長瀞義保を名乗ったとされているが、長瀞城に在城したという確証はない。また、矢桐相模守が5,000石をもって在城したとされるがこれも確証はない。

江戸時代に入り、長瀞城は元和年間(1615〜24)に廃城となったが、寛永20年(1643)に幕府直轄領となり、寛文11年(1671)には幕府代官所が置かれた。さらに寛政10年(1798)には米津通政が武州久喜より1万2,000石をもって入部し、長瀞藩陣屋となった。
その後4代目政敏の代、戊辰戦争の際には庄内藩と結び、政敏は庄内藩兵と共に庄内へ逃亡、長州・山形藩兵の放火により居館はすべて焼失した。


 ■ 構成
長瀞城は方形状の平城である。三重の堀によって本丸を中心に外側を二ノ丸、さらにその外側を三ノ丸で囲む輪郭式であった。
各郭は水堀・土塁によって囲まれていた。


 ■ 現況
現在は宅地化されており遺構は殆ど残っていないが、比較的水堀が良好な状態で残っており、郭の形状や規模が推定できる。

■ 三ノ丸跡
城の最も外周に位置する。現在は住宅地となっている。
■ 二ノ堀東側
三ノ丸と二ノ丸間の堀跡である。
■ 三ノ丸跡
二ノ丸大手跡を南側より望む。
■ 二ノ丸大手跡
二ノ丸東側に大手が設けられていた。
■ 中館跡
三ノ丸北東部に位置する。
堀の底土が高く盛り上げられ、二ノ丸まで続いており、二ノ丸と三ノ丸をつなぐ隠し道といわれた。
■ 中堀跡
二ノ堀北東隅に位置する。堀の内側は二ノ丸北東隅である。
■ 下堀跡
水堀が良好に残る。
■ 二ノ丸跡北側
下堀より二ノ丸北側の入口に繋がっている。
■ 下堀跡
二ノ堀で最も下手に位置する堀である。堀幅は約9間(17m)にも達する。
■ 二ノ堀西側
下堀から南へ伸びる。
■ 二ノ堀南西側
上記画像の堀と道路を隔てて続いている。
■ 二ノ丸跡
三ノ丸の内側にニノ堀を隔てて存在する。
三ノ丸同様こちらも現在は宅地化されている。
■ 大手跡
本丸大手跡。
二ノ丸大手跡延長上に位置している。
■ 陣屋跡
中世には本丸跡であり、江戸時代には陣屋が置かれていた。
一辺が114mの規模であった。
■ 一ノ堀西側
本丸跡は一ノ堀によって囲まれていた。
■ 御蔵前二ノ堀跡
ニノ堀南東隅に位置する。
■ 地図