■ 沿革
長瀞城は小田島荘の中心に位置し、建長年間(1249〜56)に西根氏が築城したと伝えられる。
応永21年(1414)に最上満家が入部し、この城に隠居したとされているが詳細は不明である。
戦国時代には天童氏家臣の長瀞左衛門が在城し、度々最上氏と争ったという。その後、天童氏が最上義光によって滅ぼされると、義光は郡代として遠山外記を派遣して長瀞城に入城させた。後に外記は尾花沢郡代であった新館十郎と戦い、延沢氏に滅ぼされたとされる。
その間、義光の弟が長瀞義保を名乗ったとされているが、長瀞城に在城したという確証はない。また、矢桐相模守が5,000石をもって在城したとされるがこれも確証はない。
江戸時代に入り、長瀞城は元和年間(1615〜24)に廃城となったが、寛永20年(1643)に幕府直轄領となり、寛文11年(1671)には幕府代官所が置かれた。さらに寛政10年(1798)には米津通政が武州久喜より1万2,000石をもって入部し、長瀞藩陣屋となった。
その後4代目政敏の代、戊辰戦争の際には庄内藩と結び、政敏は庄内藩兵と共に庄内へ逃亡、長州・山形藩兵の放火により居館はすべて焼失した。
■ 構成
長瀞城は方形状の平城である。三重の堀によって本丸を中心に外側を二ノ丸、さらにその外側を三ノ丸で囲む輪郭式であった。
各郭は水堀・土塁によって囲まれていた。
■ 現況
現在は宅地化されており遺構は殆ど残っていないが、比較的水堀が良好な状態で残っており、郭の形状や規模が推定できる。
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■ 三ノ丸跡
城の最も外周に位置する。現在は住宅地となっている。 |
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■ 二ノ丸大手跡
二ノ丸東側に大手が設けられていた。 |
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■ 中館跡
三ノ丸北東部に位置する。
堀の底土が高く盛り上げられ、二ノ丸まで続いており、二ノ丸と三ノ丸をつなぐ隠し道といわれた。 |
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■ 中堀跡
二ノ堀北東隅に位置する。堀の内側は二ノ丸北東隅である。 |
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■ 二ノ丸跡北側
下堀より二ノ丸北側の入口に繋がっている。 |
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■ 下堀跡
二ノ堀で最も下手に位置する堀である。堀幅は約9間(17m)にも達する。 |
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■ 二ノ堀南西側
上記画像の堀と道路を隔てて続いている。 |
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■ 二ノ丸跡
三ノ丸の内側にニノ堀を隔てて存在する。
三ノ丸同様こちらも現在は宅地化されている。 |
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■ 大手跡
本丸大手跡。
二ノ丸大手跡延長上に位置している。 |
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■ 陣屋跡
中世には本丸跡であり、江戸時代には陣屋が置かれていた。
一辺が114mの規模であった。 |
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■ 一ノ堀西側
本丸跡は一ノ堀によって囲まれていた。 |
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