なかのじょう
中野城
中野城跡  訪問年月日  2006年5月6日 / 2008年5月4日
 別称  −
 所在地  山形県山形市大字中野
 創築者  中野満基
 主要城主  中野氏・最上氏
 築城年  応永年間(1394〜1427)
 廃城年  元和8年(1622)
 様式  平城
 構成  本丸・二ノ丸
 遺構  門跡
 設置・復原物  説明板・標柱
 文化財指定  −
 ■ 沿革
中野城は最上氏の有力氏族、中野氏の居城である。

−最上氏の有力一族 中野氏−
斯波兼頼は羽州探題として延文元年(1356)に出羽国に入部して山形城を居城とし、兼頼の嫡子である直家の代に最上氏を称するようになった。
応永年間(1394〜1427)、最上氏3代満直の二男である満基は中野城を築城して居城とし、道基は中野氏を称した。各地に配された最上氏の氏族の内でも中野氏は宗家最上氏との関係が最も強く、最上氏に世継が無かった場合には度々中野氏から養子に入る事もあった。
中野氏5代義清の二男、義守も中野氏の出自であったが、最上氏に継嗣が居なかったために大永2年(1522)、僅か1歳にして最上氏10代を継いだ。この頃、最上氏は事実上伊達氏に服属していたが、天文11年(1542)、伊達氏当主の稙宗とその嫡子晴宗が争った「天文の乱」が勃発すると、これを機に義守は伊達氏からの支配を脱し、勢力拡大に成功する。

−中野義時は実在したのか−
義守には嫡子義光がいたが、義光との仲は芳しくなく、中野氏6代を継いでいた二男義時を偏愛していたという。
義守の跡を継いで義光が最上氏11代当主となると、義光と義時との仲はさらに険悪なものとなり、義時は一族である天童頼貞や義兄である伊達輝宗らと結んで義光に抵抗した。しかし義光は白鳥十郎長久の仲介によって輝宗と和睦し、後に天童氏らとも和睦したため義時は孤立した。
天正3年(1575)、義時方が義光を呪詛しているという名目により中野城は義光勢に攻められ、中野城は落城し義時は切腹、義時の嫡子である備中は仙台に逃れたという。

しかしこの一件は寛年4年(1792)成立の『稽補出羽国風土略記 巻之十』が初見であり、往時の確証のある史料にはこの事件はおろか、中野義時の名すら見当たらないことから、近年義時の実在は疑われている。

元和8年(1622)、最上氏が改易されると中野城も破却され、廃城となった。


 ■ 構成
中野城の本丸は東西約340m×南北約250m、面積約7万3,000uの規模であり、南西部に位置する二ノ丸を含むと17万1,500uであった。内堀は幅6mから10mで高さ2mの土塁を設けていた。
二ノ丸の外側には外堀が存在し、外堀の幅は5.5mから10m、深さは2.5mから3.8m以上であったとされる。


 ■ 現況
現在は本丸跡は山形市立大郷小学校の校地となっており、周囲は住宅地となっている。
また各門跡には標柱が建てられている。

■ 本丸跡
現在は山形市立大郷小学校の校地となっている。
■ 本丸跡
道路を挟んでJAやまがた大郷・住宅地となっている。
■ 南大手門跡
本丸の南側に大手門が位置していた。
■ 南大手門楯坂跡
大手門前の道路は楯坂と呼ばれており、石橋となっていた。
■ 北御門跡
かつて門の脇にはケヤキの大木が茂っていたという。
■ 北御門水堀跡
水路となって現在も残る。
■ 東御門跡
馬場や馬洗場との往来に使用された。
■ 貴船川
城の西側を流れる。